View of the World - Masuhiko Hirobuchi

July 24, 2005

第一回 洗練された人々が日本を再生させる  -頭にちょっと風穴を

tyotto_01.jpg


わずか十四、五年前まで日本はほんとうに輝いていた。
 世界の富と情報が東京に集まり、人々は未来に自信を抱いていた。外国の優秀な若者が、日本語を学ぶことで人生を切り開こうと決意し、東京や京都に集まってきた。有楽町の外国人記者クラブには活気があふれていた。
 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と書いてくれるハーバードの教授もいたし、「このままでいけば、日本はますます興隆し、アメリカはますます衰退に向かう」とうれしいことをいってくれるエール大学の教授もいた。
 人々はこの「このままでいけば」という部分を読み飛ばしてすっかり有頂天になってしまった。
 しかし、いまやだれが見ても、日本は衰退の一途をたどっている。人々は自信を失い、若者は未来に夢も希望ももっていない。
 なぜこういうことになってしまったのか?
 原因ははっきりしている。「富」や「繁栄」や「平等」や「教育」についての誤った価値観が日本を支配しているからだ。
 しかしいきなりこんなことをいっても、誰も耳をかたむけないだろう。むずかしい話は楽しく語らねば聴いてもらえない。ちょっと込み入った話を理解する能力を日本人は失ってしまった。我々の頭は自分で思う以上に硬直しているのである。
 頭に風穴を開けることだ。そうすれば新鮮な酸素が脳に送り込まれてくる。脳が動きはじめれば、体もしだいに元気になり、少しは明るい未来も見えてくるだろう。こうした身の程知らずの大事業(?)にこれから挑もうと思う。

感度の悪さが招いている不況
 
 頭の働きをにぶくしている大きな原因が、日本語の不自由さである。極論するともはや日本語では真実を語れなくなってしまったのだ。以前にくらべると放送禁止用語は格段にふえた。実際に使用不能になっている言葉がどのくらいあるかは想像もつかない。どんな裏町のおかみさんもすべて奥さんになったし、女中さんはお手伝いさんになってしまった。おかみさんはともかく、女中さんはもはや使えない。
 この辺まではまだいい。言葉の違いによってみんなの身分(?)が上がるのなら、それはそれでいいとしよう。
 しかし看護婦ではなぜいけないのか? 「婦」という言葉をなぜそれほど憎むのだろうか? そんなことをいちいち考えていたのでは、いまの日本で生きていけないのはわかっているけれど、どうにも納得がいかない。
 困るのは、呼称が変わるとそれで人間の中身までが格上になったと錯覚する人々が出てくることだ。日本全体が「偽善者」あるいは「嘘つき」の集団になっている。だれも本当のことを言わなくなってしまった。言葉に生気がなくなり、人間同士の生きたコミュニケーションが成り立たなくなっている。政治家の場合は、一つの失言で文字通り政治生命を断たれてしまう。
 そんなリスクをおかしてまで本当のことをいうバカはいない。政治家もマスコミ人間も教育者も当たり障りのない言葉しか使わない。そういう言葉ばかりの中に生きていると、人はけっして危機というものを悟りはしない。経済がここまで深刻な事態におちいることは、目が見える人には十年以上も前から見えていた。それについて警鐘を鳴らしつづけた識者も何人かいた。
 私の友人の経済学者もその一人だった。だがこの人の言葉は上品すぎた。育ちがよいというかなんというか、ぐさりと胸に突き刺さるような言葉を吐かないのだ。たまにリチャード・クー氏のような「ぐさっ!」とくることをいう人もいるが、なにせそれを受け止める人々の感度が悪すぎる。政治家、マスコミ人間それに官僚の圧倒的多数は、危機は遠い彼方のことだと思ってきた。
 この「感度」の悪さこそが、日本の危機であり不況の最大の原因なのである。日本が生き生きとよみがえるためには、なによりも「心のアンテナの感度」をよくすることが必要なのだ。

「芋ねえちゃん」を英語でいえば

 数年前に桃井かおりが出演したコマーシャルで、「バカが多くて疲れません?」というのがあった。面白いCMだった。しかしこれは視聴者の圧力で潰されてしまった。なんでも「バカ」という言葉を聞くと、バカな人々が気を悪くし、傷つくからというのがその理由だったと聞いた。このころから日本列島にはバカはいなくなってしまったらしい。
 (注 じつはこの稿が雑誌に載った直後に養老孟司教授の「バカの壁」が出版されベストセラーとなった。やはり日本にはまだまだバカは健在だったようだ。)
 こういうご時世の中で、昔なつかしい(?)「芋ねえちゃん」などという言葉を使ったらどういうことになるのだろうか? 放送ではおそらく使えないだろう。かつてテレビ局の編成課長として、出演タレントが用いた放送禁止用語のために、視聴者からきついお叱りを受けた身にとっては、言葉の恐ろしさは痛いほど分かる。しかし、大学にはまだ放送界では失われた自由がある。それがなくなったら日本からは希望が消えてしまう。
 先日、私は自分が教えている「スヌーピーたちの英語」という授業の中で、「いったい英語では『芋ねえちゃん』をどう呼ぶと思う?」と聞いてみた。学生たちは大いに笑った。とくに女子学生たちは屈託なく陽気な笑い声を立てた。だれも自分が「芋ねえちゃん」といったカテゴリー(?)に分類されると思っていない証拠である。教える側に、農村の若い女性に対する思い上がった思いや軽蔑の念がなく、ユーモアを込めて話しているのだということが分かっているためもあるだろう。学生たちは「知的に洗練されたレディ」とまではいかないとしても、芋ねえちゃんという分類には属さないと思っているのである。大らかな笑いが教室を包む中で、私はいった。「これはポテト・ガールじゃないですよ」。またしても陽気な笑いが男女双方の間から湧き起こった。
 「アメリカの大平原を想像してみてください。じつに豊かな農作物の畑が広がっています。いちばん農村的な作物はなんですか?」。学生たちはちょっと考え込んだ。少し間を置いて私はつづけた。「そう、コーン。トウモロコシです」
 黒板には Corn という字が書かれた。そのあとに y を付けるとCorny となった。「そう、コーニーです。アメリカでは コーニーというのが,田舎ふうのという意味になります。ま、芋ねえちゃんはコーニー・ガールということになるでしょうね」
 さらに私は付け加えた。「いま、電車の中で物を食べている若者がいます。化粧をしている女性がいます。この人たちは洗練された人々から見れば、非常にコーニーと映ります」。学生の何人かは、少し動揺したようだった。自分たちがカッコイイと思ってしていることが教師から否定されたのだ。自分の意見を学生に押し付ける気はまったくない。しかし、異なる文明圏から来た人間が見れば、いまの日本の習慣や風俗がどう見えるかというショックを与えることも、教育には必要なのではないかと思う。

レストランを追い出される人々
 
 いま、日本は国際的な物差しで見れば、都会的な洗練からどんどん遠ざかっている。いわば世界の文化の中心からはずれていき、日本全体が「コーニーに」なってきているのだ。たしかに女性たちは美しくなり、ネコもシャクシもルイ・ヴィトンのバッグを持ち歩いている。表面だけ見れば、日本全体が洗練されてきたように見える。だが実態は逆なのだ。本質的な部分、心の奥底の部分では日本はひと昔前よりもずっと粗野で鄙(ひな)びた国になりつつある。
 だいぶ前の話だが、パリの高級レストランで日本人の女性客が入店を断られたという話を聞いた。ディナータイムのことだそうだ。年齢は聞き漏らしたがそこそこに上品でとくにマナーが悪そうな女性たちではなかったらしい。だが、受付の男は丁重に入店を断った。
 なぜなのか? これは人種差別でもなんでもない。原因は彼女たちが女ばかりでそんな高級レストランに入ろうとしたことにある。適度に若くて魅力的な女性ばかり数人が客席に着くとどういうことになるのか?
 これは「私たち、どなたかの誘いを待ってます」というシグナルである。つまりは「私たちはその筋の女性です」という意味になる。そうすると、かならずよからぬ男が寄ってくるのもまた世の常(?)なのだ。
 「高級レストランとして名声を得ている当店では、そういう風紀を乱すおそれのあるお客様は歓迎できません。どうかお引取りを」ということになるのは当たり前の話である。
 ではどうすればよかったのか?
 ここはどんなに風采の上がらぬ男でも、たとえその男のことがいかに嫌いでも、エスコート役としてついてきてもらうしかなかったのだ。これがヨーロッパの文化的約束事なのである。それを心得ているのが淑女のたしなみであり、常識というものだろう。だが、ルイ・ヴィトンのバッグがいかに行き渡ろうが、それにともなう精神の中身に関心がなく、教養を磨こうとしない女性たちが増殖している日本で、はたしてこの常識をわきまえた女性たちがどのくらいいるのだろうか?
 いまの日本では、若年中年を問わず、女性たちは我が物顔で飲食店の席についている。店のほうも「まさか高級娼婦?」といった懸念は毛頭もっていないから、彼女たちはじつに大らかに女ばかりでテーブルを占拠している。私はこれはこれでいいと思う。日本は世界でも例のない緊張感のない国である。中年女性のおしゃべりは声が大きすぎるが、なんとか我慢できないこともない。
 だがこれは、日本というきわめて特殊な、世界から見れば例外的な文化的空間内での話なのだ。長い伝統に育まれた異質の文化圏を訪れるからには、それなりの知的装備も緊張感も必要である。日本女性がルーブル美術館で、東京や大阪での振る舞いと同じように、大声でしゃべったり、どう考えてもプロの女性たちのような服装をして歩いているのを、現地の人々は後ろ指を指しながら嘲笑していると聞く。まるで古代ローマ帝国の領内に紛れ込んだ蛮族を見るような目だという。だが彼女たちにはその自覚がない。
 真実を語らず、耳当たりのよい言葉ばかりが語られる日本に住み、どんな無作法も咎められない空間の中で、ブランド品ばかりに関心がいっている彼女たちが、遠い異国でこれ以上恥をさらさないことを祈りたい。
 困るのは、繊細な神経を欠いたこうした女性たちが、世論調査に参加してくることだ。経済について、あまりにも無知で無能な総理大臣でも、女性たちの支持さえ得ていれば、内閣の支持率は上がる。日本が生き生きとよみがえるためには、大衆レベルでの知的洗練というものが欠かせないのである。
 少し女性たちに手厳しすぎたかもしれない。次回は男性へのもっと歯に衣着せぬ注文を書こうと思う。

[Post a comment]

COMMENTS