View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 01, 2005

第二回 ネコなみの未来感覚に別れを告げて -頭にちょっと風穴を

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昼休みの大学の談話室(=食堂)では、ときどき思いがけない情報や知識が飛び込んでくる。先日もかなり優秀な男子学生が話しかけてきた。
「先生、ネコというのはどのくらい先が見えているか分かりますか?」
そんなことは分かるはずもない。自慢ではないがもともとネコの習性などについてはごく通りいっぺんの知識しか持っていないし、中学の生物の時間でもそんなことは習わなかった。
「なんと三十秒だそうですよ」
「?」 
「つまりネコは三十秒先の未来しか見えなくて、それに基づいて行動してるんだそうです」
だれがそんなことを調べているのか、専門家というのはすごいものだと感心した。落語家の故柳家小さんふうにいえば「ネコの了見」まで分かるってのは大したものである。学生はこの知識をどうやらテレビかなんかで仕入れてきたらしい。彼がいきなりそんなことをいうのは、ほかになにかいいたいことがあるからにきまっている。こちらはその期待(?)にこたえなければならない。
「近ごろは、ネコみたいな人間がふえてきたからねえ」と私はいった。
「いいたいのはそこですよ、先生」と彼は身を乗り出してきた。
それから二人は、最近の人間とネコの類似点についてだいぶ長く話し合った。たしかに超目先のことしか見えない人間がふえてきている気がする。外交でも経済でも、もっと身近には進学や就職についても、わずか二手か三手先のことが読めない人々がいっぱいいるのだ。

美人キャスターを「見て」満足する人々

こうした現象はいつごろから始まったのだろうか? 思い当たるふしは多い。
「ああ、このままでは日本はだめになっていくな」と感じ始めたのはもうずいぶんむかしのことだ。私はけっして過度の悲観論者ではないつもりだが、心を滅入らせる経験は何度も味わってきた。
そうした経験のひとつが、いわゆる「オジサン」たちの精神状態だった。
十年ほど前、経済がいまほど落ち込んでいなかったころ、仕事でいくつかの地方都市に出かけ、市の有力者たちと話した。彼らは数か月前に私よりもだいぶ後輩の美人ニュースキャスターに会ったといって興奮していた。
「かわいかった」とオジサンたちはいった。彼女の講演会に出かけてそこで握手をしたというのだ。若くてきれいな女性に会って興奮するというのは、男子として健全な証拠である。このこと自体はなにも咎(とが)めだてすべきことではない。だがそのあとがいけなかった。
「で、彼女はどういう話をしたんですか?」と私は聞いた。
「いや、それがまったくおぼえてないんですよ」というのが、有力者たちの答えだった。彼らは美しい有名人を「見にいった」のであり、彼女の話を「聴きにいった」のではなかったのだ。要するにエライさんたちにとって、このキャスターの話の中身などはどうでもよかったのである。ただかわいい笑顔ときれいな足さえ見せてくれさえすれば、それで十分満足なのであり、その幸福の余韻は百日くらいはつづいたのだ。
「この満足感があるかぎり日本のテレビジャーナリズムの質はいつまでたっても向上しない」というのが、私の実感だった。ことはそれだけにかぎらない。日本の言論の危機であり、知的状況そのものの危機なのだ。ひいては民主主義の危機であり、経済の危機だと感じたのである。
「たかだかそれくらいのことでなにもそこまで」といわれればそのとおりである。無邪気なお偉方たちのいっときの楽しみ(?)まで奪うことはないという気もする。だが大きな破局というのは一見こうしたなんでもないようなことの中に潜んでいるものなのだ。
お偉方たちは政権党にも大きな影響力を持っている。選挙ともなれば彼らは強力な集票マシ−ンと化す。この程度の人々が選挙協力への見返りとして政治家たちに注文する内容というのは大体想像がつく。こうした地方の声を吸い上げたつもりで永田町にやってくる先生方が、大きなビジョンを持ち知的体系を持つというのはとうてい無理である。「この政策を発動すればこういう結果になる」という、わずか二手三手先の将棋の盤面が読めないのでは、日本はいつまでたってもこの閉塞状況から抜け出せない。
アメリカでいまでも人気があり信頼されているABC放送のアンカー、バーバラ・ウォルターズ女史は、この九月には七十二歳になる。だれも彼女の笑顔や足のきれいさなどに期待していない。彼女の存在価値は一(いつ)にかかってその見識であり表現力なのである。

食前にタバコを吸ったばっかりに

お偉方たちが美人キャスターの話の中身に興味を示さないというのは、食べ物店に行って、そこの味に興味を示さないのとなんだか似ている気がする。客が味にうるさくない場合、外食産業全体のレベルは確実に落ちる。落語家でも料理人でも論客でも、育てるのは客なのである。
この場合、かのキャスターは講演をしにきたのだ。話の内容が記憶にも残らぬほど空疎なものであったのなら、聴き手ははっきりと不満を表現すべきだった。オジサマ方が彼女のつまらぬ話に不満ももらさず、やに下がっていたのだとしたら、講演業界のレベルはまちがいなく低下する。そしてほんとうに人々の生活に直結する、中身の濃い論客の出番は減ってゆく。かくて人々はますます物を考えなくなり、自分たちの生活を圧迫する政策が矢つぎばやに打ち出されても、その意味さえも理解しないままに歳月が過ぎてゆく。
そうした政策の中身についてはべつの機会にくわしく語りたいが、一言でいうと民衆を不幸にし貧乏にする政策が打ち出されているのに、人々はそれが招く結果を想像することができないでいるのだ。
そこで思い出すのは、パリの超一流レストランで日本人の客が追い出されたという話である。この紳士諸君はきちんと席につき料理も注文したのだが、突然チーフウェイターが出てきて、丁重に「お引き取りを」と迫ったらしい。
彼らはなぜ退出を求められたのか?
原因は喫煙である。客たちは食事の前にタバコを吸ったのだ。食べる前にタバコを吸えば必然的に舌はバカになる。そういう麻痺した舌で料理を味わうということは、シェフに対する重大な侮辱である。味が分からず料理人に敬意を払わないそうした方々は、当店のお客様ではありません。どうぞお引き取りをーーというのが、チーフウェイターのメッセージであった。
ずっとむかし、テレビ局のヨーロッパ特派員としてロンドンに住んでいたころ、風のたよりに聞いた話である。
 私はいまでも、見知らぬ街で食事をする場合、ちらっと中を覗いてみて、タバコを手にしている客の多い店は敬遠するようにしている。

為政者に対する「味覚音痴」

デリカシーに欠け、想像力とマナーを欠いたこれらの客と似たことを私たちは他の面でもずいぶんしてきたのではないか。思えば過去十数年の間、私たちは「為政者の力量を見抜く眼力を欠いた」国民であった。
水玉のネクタイが大好きな宰相が登場したとき、マスコミはこれを「クリーンな人柄の象徴」だと持ち上げた。まるで水玉のタイが国民を幸福にしてくれるといわんばかりだった。当たり前の話だが、ネクタイの好みと人々を幸福にできる能力とはなんの関係もなかった。それでも人々はまだ懲りずに、つぎにはマフラーを風になびかせてアメリカ大統領と会っている姿がカッコイイとして殿様の家系の宰相をもてはやした。過剰な使命感に駆られ、「バブル退治」と張り切って、生きた経済を殺してしまった日銀総裁を、経済記者たちは「平成の鬼平」と持ち上げていた。
あげくのはてに、漫才師は庶民の代表であり、東京の中央権力への抵抗のシンボルだという理屈を考え出したマスコミは、のちにセクハラで退陣するような男を大阪府知事に当選させたのである。
「いい加減にしろ!」と怒る友人がいたし、「こんなことで日本がよくなるわけはない」と泣く友もいた。しかし彼らはしょせん少数派だった。
人々は一杯五百円のラーメンを選ぶにもどちらの店にしようかと真剣に考える。その真剣さが選挙の際に発揮されれば、日本はずっと住みよい国になるだろう。だが実態はちがう。「あの人は感じがいい」とか「好きだ」「嫌いだ」、はては「おじいさんの代から00家に投票しているから」といった理由で政治家を選んでいる。まさに「為政者や政策に対する味覚音痴」が日本を駄目にしているのである。
ライバル店であるはずの野党が、ショウウィンドウに飾っている料理のサンプルがまずそうに見えることもたしかだ。ならば与党の中でだれが次のトップにふさわしいかを見極める目と舌をやしなうしかないだろう。
生死を分ける重病にかかった場合、あなたは感じのいいヘボ医者と、とっつきの悪い名医のどちらに診てもらうだろうか? 日本がこれほどの重病におちいって久しいのに、人々はまだ「感じのいいヘボ医者」を好んでいる。
政治家から美人アナまで、テレビに登場するあらゆる人物を、容貌(ようぼう)や外見、思いつきのパフォーマンスなどでなく、「コメント内容」で評価することだ。それしか我々が生き延びる道はない。
バーバラ・ウォルターズが司会する番組の一つは「20/20(トゥェンティ・トゥェンティ)」である。「左右両眼とも視力2・0(トゥェンティ)を備えてはるかな彼方を見ようではないか」という願いを込めたタイトルなのだ。
遠くを見ることのできない者は、ワシントンや北京やバグダッドの本当の心の内を読み取ることはできない。ネコなみの先見力では近い未来さえ見えてこない。しかし眼力ある人々には、迫りくる危機もそのあとに訪れるであろう「希望」もまた見えるはずなのである。(隔月誌「FoodBiz」(フードビズ)2003年3月)

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