View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 06, 2005

第七回 終着駅のノスタルジー -頭にちょっと風穴を

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ティファニーについての思い違い

ずっと昔、オードリー・ヘップバーンが主演する映画『ティファニーで朝食を』が日本でも大ヒットした。舞台はニューヨーク。おしゃれで都会的な味わいと人生の哀歓が溶け合ったロマンティックコメディだった。
ヘップバーン扮するヒロインは、ときどき朝早く五番街にあるティファニーのショウウインドーを眺めながら、クロワッサンとコーヒーくらいの軽い朝食をとる。ウインドーに飾られている宝石が象徴する富や本物のクォリティライフへの憧れと、粗末な朝食のコントラストが切なく、かわいらしかった。
だがこの題名があまりにも有名になったために、あわて者の中には「ティファニーというのは飲食店のこと」と勘違いする人も続出した。そういう異文化への勘違いにかけては日本人は世界でも有数の(?)民族である。人も車もあまり通らない田舎道にも「ティファニー」という名のレストランやスナックが続々と誕生した。
しかしニューヨークを訪れる人の数がふえ、おくればせながら映画を見る人がふえてくると、ティファニーを食べ物屋さんと錯覚する人々の数は徐々に減っていった。
そうした誤解を減らすのに大きな役割を果たしたのが、皇太子浩宮の言葉だった。「ティファニーで買い物をしたがるような人は」お妃には選ばないというものである。皇太子妃に求められる条件を目に見えるように描き出し、同時にティファニーという高級宝石店のイメージも浮き彫りにした名言だった。
それからまた何年かが過ぎた。ニューヨークについて知る人々の数は確実にふえている。だが、この魅力ある町について、さらにはアメリカそのものの本質についての決定的に重要なことは、一向に伝わっていない。それどころか事態はもっと悪化している気がする。

まかり通る対米誤解

とにかくアメリカについて見当はずれの論をなす人が多すぎるのだ。天下の公器たるテレビや新聞で、まるで見てきたようにホワイトハウスの内幕などについてしゃべっている「識者」がいる。彼らの対米認識は気取りという衣をはがすとおよそ次のようなものだ。
「なにしろお前、アメリカにはネオコンってえ一派がいてな。こいつらが国政を牛耳ってる。ブッシュはバカだからネオコンの言いなりになってる」
「そのネオコンてなあなんです?」
「ネオコンサーバティブ、つまり新しい保守主義者だ。民主党から鞍替えしてきた連中が多くて、ブッシュを突き上げてる。イラク攻撃を進言したのもこいつらだ。彼らの狙いはずばり石油だ。世界第二の埋蔵量といわれるイラクの石油が狙いってことよ」
こういう論調(?)がひとたびメディアに載ってしまうと、もう歯止めはきかない。ネオコンは「昔は民主党にいた」というような、決定的な誤りが大手をふってまかり通ってしまう。石油が狙いなどということを聞くと、たちまちいっぱしのアメリカ通が出現して、街の居酒屋で後輩や部下たちにこの哲学(?)を語って聞かせることになる。物事のわかっている部下はいかに辟易(へきえき)しても、「部長、それは違いますよ」などとは口がさけても言えない。昔からバカに逆らっていい結果が出たためしはないのだ。
こうしたにわか評論家につけて差し上げたい薬として、私は長々とティファニーの話を引いてきたのだ。彼らが見たこともないホワイトハウスの内幕を語る口調を、次のように置き換えたら少しは話が通じやすいのではないか。
「ニューヨークにはティファニーという有名なレストランがあってな、これがまた旨いんだ。なにしろ映画の舞台にもなったくらいだからな」と。
いくらなんでもたとえが古すぎると思うし、いまどきこんなバカ部長はいないだろうが、テレビでアメリカ批判をぶつ人の言葉の多くは、言ってみればこのレベルのものであることが多いのだ。
それにしても大胆な人々である。私などは週に三回も教えている女子学生がバカか利巧かいまだに掴みかねてさんざ苦労をしているというのに、会って話したこともない他国の大統領を「バカだ」と断じる勇気(?)にはほとほと感服せざるをえない。

ターミナル駅は人生の縮図

ま、それを言えば、アメリカ人の対日理解だって、対イスラム圏についての理解だって似たようなものだと反論する人がいるだろう。だがそれは一般大衆の間の話であって、マスコミに意見を発表するような人はそんな阿呆な嘘はつかない。知りもしない領域について、見当はずれのことを語る人間に対しては、たちまち社会的生命を失わせるだけの厳しさがアメリカ社会にはあるのだ。
「ああ上野駅」という歌があった。いい歌だった。第二次大戦後、東北の各地から集団就職で東京にやってくる少年少女たちの、郷愁、人生のほろ苦さ、そして一筋の希望がよく歌い込まれていた。さらに昔には「ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と歌った歌人もいた。これらの歌の多大な貢献もあって、日本人なら、かりに上野駅を一度も訪れたことがない人でも、この駅のもつ精神的意味やムードといったものは大体分かっている。
将棋の坂田三吉が、闘志を胸に降り立った東京駅の持つ意味も分かっている。(ただしこれも譬えが古すぎて、いまどきの大学生にはわからないけれど)。
しかしである。ここ数十年の日本の経済成長の秘密を研究し、日本人の心の在り方についての、論文やノンフィクション作品を書こうとする外国人が、仮にこれらの駅のもつ情緒的精神的意味をまったく解さない人だったら、はたしてその作品は説得力をもつだろうか? 日本の貧しさ、大都会への憧れと望郷の思い、生きるためのエネルギーといったものを理解するためには、東京という大都会の持つ強烈な吸引力とそれを象徴する終着駅の持つ「意味」は避けて通れない要素だったはずである。
ここで立場を逆転させてみる。
我々はアメリカの普通の人々の喜びや悲しみ、希望や挫折感といったものをはたして正確に捉えているだろうか。彼らの人生の縮図ともいうべきターミナル駅の持つ「意味」を、我々はどれだけ理解しているだろうか? 日本の変な識者たちは、いとも簡単に「アメリカは」というけれど、二億数千万人のアメリカ人がいれば、その数だけの人生があり、価値観も心の在りようもさまざまなはずである。
そうした人生の哀歓がもっとも大量に詰まっている、ニューヨークのターミナル駅のことをちょっと考えてみたいと思う。

夢と希望を運んだ鉄路

この町は五番街を境にイーストサイドとウェストサイドに分かれる。東側のターミナル駅がグランドセントラル駅であり、西側のそれがペンシルヴェニア駅である。小説や映画により多く登場するのは、圧倒的にグランドセントラル駅である。大陸横断のユニオンパシフィック鉄道の起点であり終点である。地下鉄も何系列も通過しており、郊外の住宅地からの通勤列車も何本も入ってくる。列車の中ではいくつかの恋も生まれたし、暑熱のマンハッタンに独り残って働くサラリーマンが、北の避暑地に向かう妻子を送って、雑踏の中で大汗をかく名作映画のシーンもあった。
音楽や美術や文学などクリエイティブな職業に就きたい者にとっては、ニューヨークはまさに夢の入り口であった。私が深く関わってきた領域でいえば、スヌーピーやチャーリー・ブラウンが活躍する文学的香気あふれる名作漫画『ピーナッツ』を生み出したチャールズ・シュルツも、この駅から人生を切り開いた一人であった。
一九五〇年六月のある朝、若きシュルツは一冊の画集を抱いてミネソタ州セントポ−ル・ユニオン・ステーションからただ一人ニューヨーク行きの汽車に乗った。それまで何度も自作を新聞社や配信会社(シンジケーション)に送っていたが、ほとんどの作品は完全に無視されてきた。だが、ニューヨークの配信会社(シンディケート)の名編集者が、この無名の青年の作品の中にきらりと光るものを認め、「一度会いたい」と言ってきたのだ。期待と不安を交錯させながら、シュルツはグランドセントラル駅に降り立った。翌朝小雨にけぶるマンハッタンに歩を向けた青年の前途には、やがて世界的な名声と富への道が開かれていった。
人々が行き交うところには、当然食べ物屋が繁盛する。グランドセントラルの食べ物として、人気があるのは名物のオイスター(牡蠣)シチューであり、クラム(蛤)チャウダーである。いわゆる「小腹を充たす」程度の軽食であり、きわめてシンプルなものだ。クラムチャウダーは遠い昔、なんでも清教徒(ピューリタン)たちがイギリスから持ち込んできたものだという。いわばアメリカの精神の源流を形成している由緒正しい(?)食べ物のひとつだ。ハマグリをたっぷりの牛乳に漬け込んで煮ただけのものだが、冬の味覚としては絶品である。いっぽうオイスターシチューのほうは、牡蠣(カキ)のとれた海の名前が明らかにされており、客は好みの海の牡蠣を注文する。両者ともに駅と完全に溶け合っており、人々が郷愁をこめて思い出す食べ物である。  
チャウダーには、王様の権限に注文(いちゃもん)をつけて、あの有名な「大憲章」(マグナカルタ)を突きつけたイギリス貴族の精神的伝統も煮込まれている。その子孫が、権力者たちのいうことを唯々諾々(いいだくだく)と聞くはずがない。アメリカについて論をなすくらいの人は、せめてこれらの料理を味わい、鉄路が運んださまざまな人生のいくつかを、具体的に思い浮かべられるようになってからにしてほしいと思う。
ところでオイスターシチューだが、仮に一皿千円としても、百万円食べるためには千皿を食べなければならない。一冬に三十皿としてざっと三十年はかかる計算になる。ティファニーで百万円使うのは一瞬の間にできるけれど、庶民の希望や涙の味が溶け込んだシチューを百万円分食べるには長い歳月が必要なのだなと、当たり前のことをあらためて考えている冬である。
(「FoodBiz」2004年1月)
 

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