View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 12, 2005

第九回 アイスクリームを通して見えてくる世界 -頭にちょっと風穴を

tyotto_09.jpg


氷菓子と民主主義の関係

 「アイスクリームが食べられるというのは、その地域に民主主義が根付いている証拠だ」という話を聞いたことがある。いまどきこんなことをいえば「かわいそうに、あいつもとうとう頭がイカレたか!」と思われかねない。だがこれはむかし大真面目で信じられていた仮説(?)だった。二十世紀の初めごろの話である。
 そのころヨーロッパでは、アイスクリームが食べられるというのは貴族か裕福なブルジョアジーの家庭にかぎられていた。生産に相当なコストがかかったためらしい。私のイメージではマルセル・プルーストなどというえらい作家が、長い自伝的小説の中で描いたパリの社交界が浮かんでくる。そうしたところへ出入りする紳士淑女や、彼らの坊ちゃん嬢ちゃんたちは、誇らしげにそして幸せそうにこの氷菓子を食べていた。とにかくこの菓子は、名もなく清く貧しい人々の口に入るようなしろものではなかったらしい。
 だがここに反逆者(?)が現われた。どんな庶民でもアイスクリームが食べられる世の中を作るのだと決意した人々である。ヨーロッパの大勢に逆らってこういうことを思いつく人間というのは、アメリカ人にきまっている。彼らはだれでもがアイスクリームを食べられる社会の実現こそが、輝けるアメリカン・デモクラシーの証明だと考えたらしい。どこか「どんな貧しい労働者にも買えるような自動車を作るのだ」という、当時としてはとてつもない夢を抱いたヘンリー・フォードの理想と重なって見えてくる話だ。
さて、この氷菓子がだれの口にも入るようになるためには、まず冷蔵庫が普及していなければならない。当時冷蔵庫はたいへんに高価なものであった。まだ電気が普及する前のことだから、氷をたえず切らさないことが必要である。これはたいへんな出費であった。さらに安くて新鮮な牛乳も、ヴァニラをはじめ数々の香料も絶え間なく供給されていなければならない。たかがアイスクリームといっても、それが行き渡るためには、もろもろの社会的インフラが整備されていなければならなかったのである。
 とにかくこの氷菓子および氷そのものに対するアメリカ人の誇りと執着はたいへんなものである。どんな田舎のモーテルでも、氷だけは夜通しふんだんに作られている。「そんなにアイスばかり作ってどうするのだ」と思うが、これにはどうやら深いわけがあるらしい。
こういうことを私に教えてくれた親友たちの何人かは、帰らぬ人となってしまった。ミシガン生まれのブルースもカナダに渡ったドンももはやいない。ミズーリ生まれで日本にいるボブに確かめてみたが、若いボブは「それは初耳だ」と答えた。

ソルジェニーツィンが描いた真実

さてアイスクリームがあればその社会は民主的かというと、それはちがう。百年前の公式(?)はもはや二十一世紀の今日には当てはまらない。民主主義なんかなくたって、いまやアイスクリームを安く作れる国はいくらでもある。
冷戦時代のソ連に民主主義があったかと問われれば、西側的心情の人は即座に「そんなものがあるわけはない」と答えるだろう。だが東側が大好きな人々は「もちろんあった!」と断言するにちがいない。
だがそうした人々は「わが国にはストライキもデモもない。人民が幸せに暮らしているからだ」といわれて、「そうだ!」と信じ込んでいたたぐいの人々である。労働者がストやデモをしないのは、現状に満足していたからではなくて、命が惜しかったからだ。そんなことをすれば、人民の代表である政府が徹底的に弾圧する。一生生きては帰れぬ強制収容所に送り込まれる。電話は盗聴されているし信書は開封されている社会で、体制に少しでも不満を抱いている者は一ときも油断はできない。友人はもとより親や子供だって当局への密告者になりかねないのである。万一気の許せる友人がいたとしても、四、五人で会合を持てば、たちまち当局にばれてしまう仕組みが出来上がっていたのだ。
そういうことをアレクサンドル・ソルジェニーツィンは『イワン・デニーソヴィッチの一日』や『収容所群島』の中で生き生きと描いた。だがこのノーベル文学賞まで受けた作家の作品を、日本の政治家のいったい何人が読んでいただろうか。読んでいれば口にするはずのない言葉を吐く人が大勢いたところを見れば、まずは読んでいない人が圧倒的に多かったのだろう。彼が西側にもたらした貴重な情報に対する日本人全体の知的欲求度は弱く、感度もきわめてにぶかった。なにしろ『収容所群島』を読んだ日本人は、三百人に一人の割合だったのだ。

おかしな尾行者

そういう息の詰まるような政治状況下のソ連でも、アイスクリームは売られていた。
東西の冷戦が始まって間もないころ、アメリカの若き外交官としてモスクワに赴任したマービン・カルプは、着任後まもなく上司から、土地勘を養うために休日には大使館の近くをできるだけ歩き回るようにといわれた。ある二月の日曜日、彼は散歩に出た。一人の男が自分を尾行していることに気付いた。相手をまくつもりで彼は地下鉄に乗った。だが男はさりげなく同じ車両に乗り込んできた。ある駅で降りて反対車線の電車が発車する直前に飛び乗った。かの忍びの者はちゃんとその電車に乗っていた。
カルプはやがて地上に出た。二月とはいえよく晴れた日だった。尾行者はひたひたとうしろをつけてきた。やがて赤の広場に出た。アイスクリームを売る老婆がいた。カルプはそれを二つ買い求めた。一つを口にしつつ、右手をうしろに伸ばしてもう一つを尾行者のほうへ差し出した。男は黙ってそれを受け取った。カルプは一度もうしろを振り向かず、尾行者もひとことも口をきかなかった。
かくて冷戦の真っ只中、東西両陣営の盟主であるアメリカの外交官と、KGB(ソ連国家保衛部)の尾行者は一日中冬のモスクワを仲よく歩きつづけたのだ。
カルプはもちろんスパイなどではない。れっきとした国務省の正式職員であり、将来を嘱望されている外交官である。しかし当時はまだ新参者であり、KGBのスパイがあとをつけるような大物などではなかった。それでも当時のソビエト政府は警戒を怠らなかった。彼がどこへ行くのか、だれと接触するのかを大真面目で見張っていた。同じことはワシントンに派遣されているソ連外交官に対しても行なわれていたのだ。一見ユーモラスにさえ見えるこのエピソードの中に、冷戦の容赦ない真実が透けて見える。
あまりに牧歌的すぎて信じられないと思う方もいるだろうが、これはかつてニューヨーク・タイムズの花形記者として鳴らし、モスクワ特派員も務めたヘドリック・スミスのベストセラー『ロシア人』の開巻第一ページ目に出てくる実話である。
カルプはのちに国務省を辞め、CBS放送とNBC放送のコメンテーターを務めた。一九八九年、ベルリンの壁が崩壊したあの激動の時代に、東欧圏の専門家としてのNBCでの彼の解説は、抜きん出たものであった。日本のメディアで、これだけの洞察力を示した報道を、私は知らない。

ジョン・ルカレと『孫子』の世界

この話をわざわざ紹介したのは、スパイとか諜報活動というものに対する知識と「実感」が、私たち日本人には決定的に欠けていると思うからである。識者と呼ばれる人々にもマスコミの内部にいる人間にも、この領域に関する想像力は乏しいし感度もにぶい。
 冷戦というのは、東西両陣営間における軍備増強競争の時代だった。同時にそれは熾烈な謀略と謀略のせめぎ合いであり情報力の勝負の時代であった。敵方の世論を分裂させ、戦う意志をくじくために、工作専門のスパイたちが暗躍した。スパイのある者はエリートとして、一国の首相の側近にまでなっていた。もちろんマスコミの中にもエージェントは埋め込まれていた。
 こうした世界を本格的に描いた作家ということになると、なんといってもイギリスのジョン・ルカレである。彼の『寒い国から来たスパイ』や、『ドイツの小さな町』などは世界中のインテリの必読書だった。ルカレを読まなければ冷戦の真実も東側の謀略も理解できないとまでいわれた。だが彼の本が日本で売れた部数を聞くと、絶望的にさえなってくる。我々は冷戦のなんたるかをいまだに知らずにいるといってよいのではないか。
あまりにも心すなおな人々は、冷戦が終わったのだからスパイたちの活躍の場もなくなったと思っている。しかしそんなことはありえない。どの国も生き延びるためにいまでも必死で謀略をめぐらせ、スパイを放っている。日本の世論を分裂させ政治勢力を敵対させることを国家戦略の基本としている国もある。そういう所へわざわざ出かけていって自国の悪口をいい、要人と写真をとって帰ってくる政治家やジャーナリストがいる。先方から見ればきわめて扱いやすい存在であろう。なにしろ「先生、先生」とおだててさえいれば、無邪気な日本人たちは簡単に乗せられてしまうのだから。
 まさに「上兵は謀(ぼう)を討つ」(『孫子』)である。上等の軍人というのは、損失の大きい軍隊同士の戦闘などはしない。真にすぐれた兵は敵のはかりごとを討つのであり、謀略によって敵を討つのだーーという教えを実践しているのが我々を取り巻く国家群なのだ。
 いまコカコーラ、ジャズ、ハンバーガー、ジーンズ、アイスクリームなどのアメリカ文化は、ほぼ世界中に行き渡った。アメリカが国家戦略としてこれらの「物」を世界に普及させようとしていたのかどうかは分からない。だが冷戦のさなかに、ソ連やブルガリアやハンガリーやチェコスロヴァキアを旅した者は、現地の人々がいかにこうした製品に憧れていたかを知っている。東の人々は物を通して伝わってくる「価値」に憧れたのであり、「アメリカ的なるもの」に憧れたのだ。なにしろジーンズ一本が、女子公務員の半月から一か月分の給料に相当するといわれた時代である。それを持っていった西側の男たちがモテモテだったという「伝説」を、私も何度か耳にしたものだ。
世界の人々は、アイスクリームまでもがアメリカ文化の所産だとは気付いていない。むかしのアメリカの一部の人々が、この菓子にかけた情熱と使命感も理解していない。
 少々おせっかいなアメリカ人たちは、アイスクリームと同じように「民主主義」も世界に普及させるのが自分たちの聖なる務めだと思っている。だが、食うや食わずの人々にとっては、アイスクリームよりもまず主食である。美しい民主主義よりも、安心して眠れる夜がほしいだろう。アメリカの指導者は過剰な使命感を少し抑えたほうがいい。彼らはちょっと焦りすぎている感じだ。ジーンズやコーラだって、東側陣営の人々に行き渡るには何十年もかかったことを思い出したほうがいいのではないか。

[Post a comment]

COMMENTS