View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 15, 2005

第十回 牛肉を食べない文化圏 -頭にちょっと風穴を

tyotto_10.jpg


機内食をめぐる会話

 じつに二十数年ぶりで韓国に行ってきた。国際企業経営者協会のお仲間に加わり、世界的なエレクトロニクス産業を視察に行ったのだ。この協会の浜脇洋二代表を永年存じ上げているご縁から、私にもお声がかかったというわけである。
 六月の半ば、朝の九時に成田を飛び立ったアシアナ航空は満席だった。隣にはちょっと色の浅黒い男性が乗っていた。離陸後しばらくしてから、彼が話し掛けてきた。私が前座席の背もたれの網に入れた英字新聞を見せてくれないかというのだ。話すきっかけができて、彼がインドの出身であること、いまはアメリカ合衆国の市民であること、過去一年ほど仕事でソウルに住んでいることなどが分かった。仕事の内容は聞かなかったが、話の成り行きでこちらも大学で教えていることを話した。これで彼は少し安心(?)したらしい。
機が安定飛行に入り、客室乗務員が朝昼兼用の食事を運んできた。私の危惧していたことが起こった。彼が思わず顔をしかめたのだ。
「ヒンドゥー教徒?」と私は聞いた。
「イエス」と彼は答えた。
食事のトレイにはメインディッシュとして牛肉のステーキが乗っていた。
彼は乗務員に「なにかべつのものはないのか?」と聞いた。しかし答えは「申し訳ありません」のみであった。機内の案内書には「宗教的理由により特定のものが召し上がれない場合は、事前にお申しつけくだされば、他のメニューをご用意いたします」とたしかに書いてある。しかし東京からソウルまでの二時間半の旅で、そこまで周到に事前に自分の食事を注文する客はいったい何人いるだろうか? 
このインド人がおなかをすかしたかどうかは、それほど大きな問題ではない。もちろん本人にとっては大問題にきまっているのだが、それよりも大事なのは彼が明らかに誇りを傷つけられたことだ。
 「ところで韓国での生活はどうですか?」と私は聞いた。彼はちょっと言いよどんだ。「うーん」という感じだった。あまり快適とはいえない様子だった。「日本人のほうがもっとオープンですか?」「オー、イエス!」と彼は我が意を得たりというふうに答えた。どうやら韓国の社会には、日本以上に彼のような外国人が入り込みにくい壁があるのだろう。 

他からの攻撃に弱い文化

近ごろの国際社会では、イスラム教徒やユダヤ教徒の自己主張の声がつよい。したがってこの人々が口にしない豚肉(ポーク)の料理は、機内ではあまり出ない気がする。仮に出た場合は、それにかわる料理をかならず用意している。
 ところが少なく見積もっても、世界に九億人はいると推定されるヒンドゥー教徒たちは、あまり声高に自己主張はしていないようだ。「私たちは牛肉を食べません」という声がどうも弱いように思える。それをよいことに(?)我々は人類の進歩に多大の貢献をしてきたこの人々への配慮をいちじるしく欠いているのではないか?
 ヒンドゥー教の本場のインドでは、「ヒンドゥー教」に当たる言葉はないのだそうだ。なんでもこれは異教徒がつけた名前だという。ヒンドゥー教は、教祖があるわけではなく、自然発生的な信仰の多くを柔軟に吸収して発展してきた。それは生活習慣そのものであり、わざわざ命名するという意識がないらしいのだ。この教えはじつに広大であり、素朴な土俗信仰からきわめて高度な哲学的領域まで含むのだという。もちろん偶像は禁止していない。優雅な曲線を持った女神も、人間的な神々も登場する。さらには多神教でありながら、その中には一神教的教えも包含しているのだという。
 私はこの自己矛盾のようにも見える「一神教をも包含する多神教」という考えに大いなる魅力を感じる。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒がそれぞれの「唯一の神」を信じ、なにかといえばいがみ合い殺し合っている世界の現状を見るにつけ、ヒンドゥー教徒たちの「なんでもあり」という度量はなんと魅力的に見えてくることか! だがこういう多様性に富む文化は、組織力が弱く、外敵の攻撃はきわめて弱いのだそうだ。
さてインドを訪れた人は、大体二つのタイプに分かれるという。ひとつはインドが大好きになる人々だ。聖なる河ガンジスに沈む壮大な夕日の美しさに魅せられ、そこで水浴びをしている人々の信仰に打たれ、カルカッタの路上で冥想しながら一生を送る男の姿に哲学者の面影を見る。現代では失われてしまった「悠久」とか「永遠」というものを、彫りの深い顔に見出して感動する。
 第二のタイプは、空港に到着したとたんに鼻をつく独特のにおい、喧騒、あまりにも汚れた街路などに嫌気がさし、けっしてインドを好きになれない人々である。ひところの毎朝髪にシャンプーをしないと外出できないほどの、超潔癖な若者たちに代わり、いまは「地ベタリアン」などと呼ばれて平気で地面に坐っている者が多い日本だが、こうした連中でもカルカッタの街路を見たらどう思うだろうか。自分のことは棚に上げて「汚い」という感想しか持ち得ないのではないか。彼らが路上生活者の姿に輪廻(りんね)、転生(てんしょう)、業(ごう)といったものを見るなどとは考えられない。
最近のインドは、世界一の映画生産国としても知られる、コンピューター技術者の多い国としてのイメージも定着してきた。アメリカでもヨーロッパでも、ソフトウエアの技術者が不足し、これに秀でたインド人は引っ張り凧だという。こうした能力の基礎になっているのが、英語を駆使する力と数字に対するつよさだろう。日本人は九九ができることを誇っているが、インド人はそれよりはるかに上手(うわて)で、二桁の掛け算ができる。小学生でも19x19までの掛け算が即座にできるという。さすがは「ゼロ」という概念を世界ではじめて生み出した人々である。
 このほかにも私たちの頭には、お釈迦(しゃか)さま、達磨(ダルマ)大師、ガンジー、象、クジャク、虎、韋駄天(いだてん)、弁財天(弁天さま)などインドについての新旧さまざまな知識がごっちゃになり、なにがなんだか分からなくなっているが、この国の終始変わらぬ本質は、牛を神の化身と見て、けっしてこれを食べない人々ということになるのではないか。

焼肉とキリスト教

 仁川(インチョン)空港に着いた一行は、ホテルにチェックインせずにS電子に直行した。完璧な日本語を話す常務が、同社の人事戦略を説明してくれた。きわめてヴィジュアルに、コンピューターを駆使しての説明である。
一九九七年に経済が破綻し、IMF(国際通貨基金)の管理下に置かれた韓国は、国家も企業もドラスティックな改革を迫られた。年功序列や長幼の序といった古い価値を拠り所にする人々は、ビジネスの第一線から遠ざけられた。企業間の優劣がはっきりし、S社のような超優良企業は、大胆に世界中から人材を集めた。博士号(PhD)を持った社員だけで一、八00人もいるという。昇進や登用のシステムも明快である。片や時代の変化についていけない財閥の多くは壊滅した。つづいて説明に立った女性の部長は、今度はしっかりした英語で、人材育成のプログラムを説明した。
こうした説明を聞いていると、これはもはや韓国の会社ではなく、アメリカの会社ひいてはそれよりももっと進んだ「世界企業」だということをひしひしと感じた。
三日間の滞在中、私たちは、二度牛肉の夕食を食べた。そして最近の韓国では儒教の影響が急速に衰えていること、キリスト教徒が国民の四七パーセントにおよんでいることを知った。日本でキリスト教徒が全人口の一パーセントにしかすぎないのと比べると対照的である。韓国ではエリート層ほどキリスト教に改宗するものが多く、改宗した人は「古い」体質の仏教徒に対して相当の優越感を抱いているように見えた。
このきわめて重要な変化に日本人はほとんど気付いていない。最近のアメリカでは、韓国人に「ジャパニーズか?」と聞くと「侮辱された」と感じる者が多いという。時代は変わったのだ。キリスト教に改宗した韓国人は、自分たちのほうが日本人よりも近代化したという錯覚を抱いているのではないか。
あの機内で会ったインド人が、韓国でどこか住みにくいものを感じているのはなぜかと考えてみた。いちばん分かりやすいのは、牛肉を食べすぎる(?)国民とまったく食べない国民のちがいということだ。いくらなんでもこれではちょっと単純化しすぎだと思う。
そこでもう少しインテリ好み(?)の分析を試みると、ヒンドゥー教徒のように、一神教までも包含する多神教というような、あまりにも度量の広い信仰は、潔癖で一元的な価値を奉じる一神教徒とはそりが合わないのかな、と思えてくる。かのインド人が、韓国人よりも日本人により親近感を感じるというのも、両者ともに宗教的にはきわめて寛容で、およそ「なんでもあり」というところが共通しているからではないのか?
 しかし寛容さと「無原則」とはちがう。インド人たちは、一見無原則に見えながら、牛肉を食べないという原則は何千年も守り抜いてきた。イスラム教徒のムガール帝国に支配され、さらにはイギリスの統治下にあった何世紀もの間、この原則はがんとして守ってきた。彼らはさらに自国の安全を守るために核兵器まで手にした。もはやだれもインドを侮れない。その一方で彼らは去る五月の総選挙で政権を交代させた。マスコミをはじめ、自由な意見を言える民主主義が行き渡っている証拠である。
地球総人口の七分の一を占めるインドの人々の心の内を理解しないでは、世界は理解できないし、平和についても語れないというのが、私の永年の思いである。
ヒンドゥー教はインド国内だけの宗教ではない。東南アジアの他の地域にも大きな影響力を持ってきた。インドネシアを代表するエアラインには「ガルーダ」の名前が付けられている。これはヒンドゥーの最高神ヴィシュヌを乗せる聖鳥である。この国にはイスラム教徒が多いが、人々の心の底層にはヒンドゥー文化が色濃く残っているのである。
厳しい国際社会の中で、摩擦を起こさず、尊厳を維持し、侮りを受けずに生き延びてゆくのはむずかしい。私は日韓両国民のコミュニケーションは以前にもましてむずかしくなったと感じる。「日本帝国主義による三十六年間の統治の恨み」の他に、いかにも無原則に見える日本への不信と侮りが韓国人の間に芽生えている。彼らが「一つの民族」というスローガンに突き動かされ、北朝鮮への親近感をふくらませているいま、他の価値は力を失っている。アメリカ的システムによる会社が栄えている一方では、民衆の反米感情は危険水域を越えている。
日本はインドのように核兵器を持つわけにはいかない。しかし国家も民族も他からの侮りを受けては生きていけない。我々の生きる道は、幅広い国際教養、言葉の力、毅然とした立ち居振舞いしかない。だがそのいずれもが不足している。
そんなことを考えた旅であった。(「FoodBiz」2004年9月)

[Post a comment]

COMMENTS