View of the World - Masuhiko Hirobuchi

October 07, 2005

第十六回 チョコレートの光と影 -頭にちょっと風穴を

tyotto_16.jpg

「パティシェ」になりたいという子供たち

 いつの時代にも子供が将来なりたい職業というものがある。プロ野球の選手、サッカー選手、学校の先生、看護師、ケビンアテンダント(スチュワーデス)、お医者さんといったところはいまでも人気がある。いままで八年間、自分が住んでいる市の教育委員として、小学校や中学校の卒業式に出席してきたが、卒業生たちが保護者や来賓に向かって将来の夢を語る場面を何度か目にした。ごく自然に夢を語っているなと思える場合もあれば、先生に無理やり希望職業を言わされているのではないかと邪推(?)したくなる場合もあった。そんなに幼いころから、無理をして希望を語らなくてもいいではないか、あまり早く公約(?)してしまうと、身動きがとれなくなる、もっと気楽にゆこうよ、というのが私の正直な気持である。だが、なにがなんでも子供に夢を語らせるのが正しい教育なのだと信じこんでいる先生が多いらしく、子供たちはときには晴れがましい表情を浮かべながらも、ときに困惑の面持ちで夢を語るのである。
 しかしこんなに早期に夢を語れる子供がいる一方では、大学の三、四年生になっても自分がなにをしたいのかが分からずに、悩んでいる若者が多いのもいまの日本なのだ。教育委員として見る日本と大学教授として見る日本の風景はだいぶ違って見える。
 さて、今年になってひとついままでとは違ったことに気付いた。それは「パティシェになりたい」という子が数人いたことだ。いままでは「ケーキ屋さん」と呼ばれていた職業である。それがパティシェというフランス語に変わっているのである。ケーキ屋さんよりはパティシェのほうがはるかにカッコイイものらしい。これははっきりとテレビの影響だそうだ。名人のケーキ職人、いやパティシェが、さっそうと菓子を作るのをテレビ画面で見ている子供が、この仕事に憧れるのは無理もない。ちなみにいままでの卒業式で「大学教授になりたい」といった子は一人もいない。これは人を謙虚にする発見である。
 パティシェといえば、今年の二月、バレンタインデーを数日後に控えて、フランスやベルギーの「ショコラティエ」(チョコレート職人)たちが、多数テレビに登場した。大都市のデパートに招かれて、製造実演をしたのである。これを取り巻く観客が映し出され、作ったチョコレート(ショコラ)はたちまち売り切れてしまった。これを見た子供たちの中に、来年の卒業式で「ショコラティエになりたい」という夢を語る子が出てくるかもしれない。少し気の早い話だが、その可能性は大いにあると思う。

少年たちの汗と涙

チョコレートという菓子は昔から「すてきなもの」「おしゃれで都会的なもの」というイメージが強かった。幸せとか、ロマンを連想させる菓子であった。だが一つのニュースをきっかけに、私のチョコレート観(?)は一変した。
二〇〇一年の四月半ば、イギリスのBBCテレビが、アフリカの西海岸コートジボアールからのレポートを送ってきた。この国のカカオ豆栽培の農園に多数の子供が「奴隷として」売られてきて、苛酷な労働に従事しているというのだ。親たちがあまりにも貧しく生活がきびしいので、子供を労働力として農園に売るためである。労働は非常にきつく、給料も支払われない。子供たちは苦しさに耐えかねて何度も脱出を試みるが、監視がきびしく成功する者はほとんどいないということが、辛うじて逃げてきた少年によって語られていた。
 世界で消費されるココアやチョコレートの原料になるカカオ豆の四七パーセントがコートジボアールで生産されるという。BBCが取り上げた農園はその中でも最大規模のものである。もしチョコレートを食べる人が激減すれば、農園主にとっては大打撃になるだろうと記者は語った。皆さんがこれを食べるのを少し控えて強欲な農園主を懲らしめてくれないか、といいたそうだった。国連も調査に乗り出し、農園主とも折衝しているが、農園側は雇用契約の正当性を主張して譲らず、事態は改善の兆しがないとのことであった。
 少年たちを農園に「売る」ことで、親が得る現金はなんと三千円だという。いくらなんでもこの現実は悲惨すぎる。こういう報道に接すると、「それは一次産品を安く買い叩く資本主義社会が悪いのだ」と、紋切り型そのものの反応をする人がいる。だがそんなしたり顔の解説はこの際なんの役にも立たない。こうした人びとは百五十年以上も同じことをいってきた。しかしこの地上から貧困と悲惨はなくなっていないのだ。毎年のバレンタインデーに、チョコレートをもらったの、もらわないので一喜一憂している男たちがいる平和ボケの国のことがいやでも頭に浮かんできた。
このニュースから受けた衝撃を、私は雑誌に書き、授業や講演の席で話し、さらには小中学校の卒業式で祝辞を述べる際に語った。一枚の板チョコを見せて、「この中には少年たちの汗と涙が煮つめられているのだということを、ときには思い出してほしい」と話した。子供たちは真剣に耳を傾け、先生や保護者の皆さんが感動と衝撃をあらわにしてくれた。「あの話をぜひもう一度」というリクェストが相次ぎ、その後私は年に一回はこの話をしてきた。
しかしいま、少年たちの涙のことはだれも考えない。そして日本の大都市には一粒千円のショコラを幸せそうに食べるOLたちが増殖中である。
たしかに、なにからなにまで世界の苦悩と結びつけて物事を捉えていたのでは疲れてしまう。第一それはあまりに野暮というものだろう。平和な時代と地域にはゲーム感覚としての心の遊びや楽しみがあってよい。バレンタインデーにチョコレートが自分のところに来ないのに腹を立て、周囲の女性やこの菓子を逆恨み(?)している男性たちがいる一方では、なにかといえばいまの日本の社会が悪いのは大人の男たちのせいだときめ付けてしまう若者や女性たちがいる。さらにはちょっとでも辛いことに耐えられなくて、すぐに「切れて」しまう子供たちがいる。彼らに脅え腫れ物にさわるように扱う親たちがいる。そうした人びとも、ひとたびこの少年たちの実態を知れば、悩みのほとんどは即座に解消するのではないかと私は思う。自分がいかに恵まれているかを悟り、悩みともいえないようなことで悩んだり腹を立てていたことが分かってくるはずだ。

世界の常識に逆らう人びと

それでも「自分一人が少年たちのことを考えたからといって、彼らの苦しみが軽減されるのか?」と問われれば、「すぐには無理としても、やがてかならず効いてくる」と答えたい。こうした苦しみが分かっている人は、外国へ行ってもむやみに大声でしゃべったり空港で走ったりはしない。静かなる人びとがふえれば、社会全体が思慮ぶかくなる。好きか嫌いかで政治家を選ばなくなる。大衆のミーハー的人気だけを頼りに生きている政治家はバタバタと落選する。情緒的で主観的な報道を繰り返しているメディアやキャスターは次第に淘汰される。こういう社会では、キャーキャーいう人の数が減る。ヨンさまとかに熱をあげて韓国まで出向き、あちらでもキャーキャーと大声を張り上げるものだから、現地の人々から「なんだ、日本の女たちは!」と軽蔑を買うような女性は減ってゆく。韓国では彼女たちの行状に呆れて、それが侮日(ぶにち)感情を生み、反日感情に拍車をかけているという。しかし日本で最強のメディアであるNHKは、そんなことは一言も伝えない。視聴者のご機嫌をそこねて「冬ソナ」ブームに水をさすことを恐れているらしいのだ。
いま先進国の間には、途上国はいくら援助しても発展する希望はないという絶望感みたいなものがあることはたしかだ。しかし対外援助資金の使い方にもっと関心を持つ国民がふえてくれば、事態はいくらかでも改善するだろう。あの少年たちの運命にも少しは希望が出てくるというものだ。話はそうとんとん拍子にはゆくわけはないが、いまよりは住みやすい社会になるのはまちがいないのである。
さてここまで憎まれ口をきいたからには、途中で引き下がるわけにはいかない。過去何十年も日本を覆っている「ある信仰」に切り込まざるをえないのである。
まず明らかにしておきたいのは、チョコレートはかつては欧米の中上流階級の家庭では、年ごろの娘には食べさせないものとされていたことだ。それは日本でも同じだった。栄養価が非常に高いために性的興奮を呼び起こすという理由からだった。女性に効くものはもちろん男性にも効く。これを食べすぎて、たちまちその気になる男のことが、名画『ショコラ』にも描かれていた。してみればバレンタインデーにこれを贈るという行動は、相当にイミシンに見えてくる。この日、欧米では男性から女性に贈るのに反して、日本ではその逆になっているとマスコミはときどき伝えているが、かの地の女性たちがチョコを贈らないのには、それなりの深いわけがあったのだ。慎みぶかい女性は、やたらに男にこんなものを贈るべきではないということになる。世の中がどんなに変わろうと、これが世界の圧倒的多数の地域での考え方なのである。
しかし日本では、あの日にチョコレートを男性に贈ることが絶対に正しいのだという「信仰」がまかり通っている。「あの習慣は他国にはないのだ」といった意見は一蹴されてしまう。大所高所から国際問題を論じる人は多いが、こういう下世話な(?)問題にエネルギーを費やす論客はいない。こうした空気の中で育った女子高生や大学生たちが、アメリカやイギリスの家庭にホームステイをして、そこのご主人にチョコレートをプレゼントする。誤解する者が出てくるのは当然である。数年前アメリカ西海岸のある州では、彼女たちのことを「レス・ザン・ア・ペニー」と呼んでいた。することなすことにあまりにも品がなく、家事手伝いもせずに遊び歩くからで、「一ペニーにも価しない」という意味だった。
我々は外国で育まれた習慣や文化をあまりにも軽く身勝手に解釈しすぎているのではないか。チョコレートひとつを取っても、平和、人権、自由といったかけがえのない価値についても、我々の理解は国際社会の常識とは大きくかけ離れている。
チョコレートは冬山で遭難しかかった人の命を何日も繋いできた。すばらしい食品である。精神の面でもこの菓子は宗教的束縛から人間を解き放つ役割を果たしてきた。だがすべてのものには光もあれば影もある。この菓子の独特の光沢の中には、我々がふだん考えもしない複雑なメッセージが込められているのである。

[Post a comment]

COMMENTS

1 : rescue : October 7, 2005 02:56 AM

こんにちは先生。
光と影があるという物事の運命に乗せてこうしたお話にまで発展していく・・・身近な話題から壮大になっていく観点が風穴シリーズの特徴ですね。面白いです。
先生のお話はチョコレートでしたが、実際には生命の犠牲の上に人間が立っている事だけは、間違いなく、変えようもないのでしょうね。しかし私は敢えて悲しまずに生きようと思います。私達を生きさせてくれている生命がそうしてほしいと考えるからです。
子供の頃は夢も持てて、大学生では夢を持てない・・・の話ですが、きっと現実にぶつかるのでしょう。私も昔は無邪気に語れた夢が1つありますが、今はどうにも・・・。お恥ずかしい話ではありますが。

2 : ラ・マンチャの男 : October 7, 2005 09:40 AM

チョコレートひとつを見て、こんなにいろいろなことを考えるというのも因果な(?)性分ですが、こういうふうに頭を回転させても人が思うほどには疲れないものです。身近な話題から壮大になっていく観点が、このシリーズの特徴と見破ってくださって有難いです。中には「なんでこんなことを書いているのだろう?」と思っているでしょうに! 子供のころの夢を今は語れないというお気持ちは分かります。宇宙万物すべての生命と宇宙の意思といったものに目を向けられる感性はすばらしいと思います。

3 : fujimino : October 7, 2005 10:56 PM

世界の中には、満足に食事も出来ず、生きるだけで精一杯の人間達がたくさんいるにも関わらず。飽食の中で日々生きているのが今の日本人と言えます。
美味しい高価な食事を食べるのがステータスであり、それが素晴らしいことと考えている大人の方達が多いのが、子供達の考えの基となっているように思います。
食事における飽食より、ケーキやチョコレートなどは食べなくても生きられる事からより贅沢であり、ステータスの目標になり得ると考えられていると言えます。
そんな素晴らしいスイーツを提供するパテシェはその最たるものと言えるのでは。

お書きになっているようなココナッツ農園の現状が、過去テレビなどで、何度か放映されましたが、それによって考えを改めた方が何人いたのでしょうか?
見て改めた方は板とは思います。
しかし、それは、その要素を持っていた人のみが見たのであり、本当に見て欲しい方達は、見るどころか、話題にもしなかったのでは・・。
何もココナッツに寄らず僕たちの生活を支えている全てに置いて、多くの犠牲が払われていると言う現実を本当に知らないのでしょうか?
僕は知っていながら、知らない振りをしているか、なるべく避けているだけの事に思えます。

昔、食事をする前に、手を合わせ、「お百姓さんありがとうございます。頂きます。」と言ってから頂きなさい。なんて親は子供に言っていたものです。
しかし現在は、「お金を払っているんだ。何故頂きます。なんて言わせるんだ」と学校に怒鳴り込んでくる親もいるとか聞いています。

「もし地球が100人の村だったら」ではありませんが、この現象は、全ての面に見られる現象です。
つい先日、北極海の氷が大幅に溶けているとの報道がありました。要するに地球の温暖化が原因とによると考えられています。
昔は、エネルギーの大半は工業関係に使われていました。
現在では、交通手段に費やされるエネルギー工場などで消費される量を上回っています。そしてその費やされるエネルギーの80%が、ほんの一握りの先進国(20%)の人達によって費やされているんです。
その結果、インドでも、南太平洋の国々でも多くの土地が海中に没しています。
その結果多くの貧しい人々が土地を奪われています。
そう僕たちの生活が快適であればあるほど、これからも多くの貧しい人達の土地も、家も何もかも奪っていくのです。

此は、もし、世界の貧しい人達が僕たちの生活レベルに達した時、エネルギーの消費は、400%となり、多くの人達が滅びるか、それとも地球が滅びるか、世界戦争が起き、エネルギーの取り合いになる事を意味していてます。
そしてこの事も多くの人達が知っている事実です。
しかし、僕も含めて、多少の考慮はしているものの、決定的な行動を起こしている方達は殆どいません。

最近騒がれている、アスベスト問題も似たような考え方が出来ます。
20数年前、アメリカで大問題になり、日本でも大きな人気を得ていた、スティーブ・マックウィーンがアスベストで亡くなった事から日本でも大騒ぎになりました。
しかし、当初は、工場で作業に携わっている方達だけが、癌や中皮腫などになるだけのなんて伝えられると、あっという間にしぼんでしまいました。
しかし、当時から近年まで、アメリカやヨーロッパに出かけたり住まいした方はたくさんいたはずです。
特に、報道関係、知識階層の方達の中には、外国の大学などで学んだ方も多々いると思います。
そんな方達の大半は、あれだけ外国で、騒がれたのですから当然耳にしていたはずです。
しかし、対岸の火事と思っていたように思います。
現在、10万人が死に至るとも言われていますが、ここに来て自分の事に影響すると思われるようになると、途端にみんなが立ち上がり始めるのです。
もちろん当時から戦い続けていた方達もいましたがあまりにも少ない人達でした。
もし当時、知識階級の知っている人達が、先頭に立ち情報を広めていたら局面は大きく違っていたように思えるのです。

民主主義社会とは、権利があると同時に義務を果たさなければいけないはずです。
しかし、いつの間にか義務が捨て去られ、権利だけが一人歩きしているように思えます。
自分だけが良ければと言う考えは、少なからず多くの人達が持っている人間の業かも知れませんが、今の現状はあまりにも歪みきってしまっているのではないでしょうか。

このような現状に一石でも投じられればと思い時々、色々と書いてはいますが、何かむなしくも感じています。

こちらのブログも素晴らしい事がたくさん書かれています。
しかし、読んでいる方達は、すでにその要素をもっている方達であり、本当に読んで貰いたい方達は、見つけたとしても読まずに通り過ぎていく。そんな気がしてならないのです。

世界の子中で恵まれない人達はたくさんいます。
手をさしのべるのが僕たちの義務と思います。
しかし、今の日本の状態は、そんな余裕さえ許さない状況であり、次に来る想像もできない悲惨な状況へのプロローグのように思えてなりません。
なにも結論めいたことを書いてはいませんが、現在悩んでいる心のままに書かせて頂きました。

4 : ラ・マンチャの男 : October 7, 2005 11:40 PM

fujimino様 私の記事から「世界のいま」「日本のいま」に思いを馳せられ、誠実に取り組んでおられるお姿が浮かび上がります。数々の悲観的な兆しがあることは事実です。「どうしてこんな重大なことに無関心でいられるのか?」と思う人々が多いですね。私の教え子の一人は、いま21歳の女性ですが、「こんなことをしていては日本は駄目だ。中国人の留学生に比べれば両国の未来の差ははっきりしている。こんなことでは中国や韓国にいいようにされてしまうだろう」と言い、努力することに絶望しかかっています。教育も言論もつくづく無力だと感じることは多々あります。しかし、それでも言論人というのは、「明日は今日よりもよいことが来る」という希望を抱いて活動する種族なのです。ミュージカル『ラ・マンチャの男』の主題歌が「いかに望みなくとも」「不可能な夢を夢見、勝つことのあたわぬ戦いを戦い、到達できそうもない星に到達するのだ」となっています。私の心の大きな支えがこの歌です。愚かに見えるかも知れませんが、ご参考になさってみてください。

5 : mix : October 8, 2005 12:23 AM

バレンタインデーに関しては20年ほど前、アメリカにいたときに、子供たちが小学校と幼稚園に通っていたのでアメリカの習慣を学ぶことが出きました。
子供たちはクラス全員に渡すカードを作ってくるようにいわれてきたのです。始めは何のことか分からないまま、カードを買いに近くのモールに行きました。そこには、バレンタインカードが山と詰まれているではありませんか。日本のデパートにこの時期だけできる高級チョコレートの売り場などは見つかりません。確か、カードには「 I love you! 」と書かれてあったと思います。そこにサインをして当日学校にもっていきました。そして、その日はクラスの友達からもらったカードを大事そうに抱えて帰ってきました。
先生からは家族や友だちに愛を送る日、みんなを大切に思う日と教わってきたのではないかと思います。
そういえば、私自身もチョコレートをだれかに送ったことは一度もありませんでした。

6 : ラ・マンチャの男 : October 8, 2005 09:54 AM

mix様 コメントをありがとうございます。バレンタインデーが本来の「愛を送る日」から離れてあまりに歪められ商業化している日本ですが、アメリカではもともとの精神が生きているのですね。それにしてもこの日に人にチョコレートを贈ったことがない女性というのは、見上げたものです。それは mix 様が自然体で生きておられるからだと思います。みんなけっこう無理をして、いやなおやじ(?)にもチョコを贈っています。それをまた喜ぶバカおやじがいる。平和な証拠でそれもまたいいのかも知れませんが、ここらで少し他国でのあり方も考えてほしいものです。

7 : KKK : October 25, 2005 05:51 AM

アフリカというと確かに貧しいというイメージはありますがこんな悲惨なことまで起きているとは…親が働けないので子どもが代わりにパートタイムジョブとして働いているというのであればある程度話は分かるのですが。アフリカというと家族全員でコツコツと食物を調達し、わずかな量で生活しているというイメージがあります。もっと悲惨なことは子どもたちが重労働をさせられているということです。しかも厳重な警備のために逃げても捕まってしまう。これじゃまるでキューバみたいじゃないか…この話からすると日本はあまりにも贅沢しすぎということになります。もし世界中が日本のようであれば問題ないのですが…でもやはりそうもいかないのかなー…

8 : ラ・マンチャの男 : October 25, 2005 11:32 AM

KKK様 アフリカの現実を知れば、心は重くなりますが、ここは「小さな歯車をまず回す」精神で取り組んでいくしかありません。誠実なコメントをありがとうございます。