View of the World - Masuhiko Hirobuchi

January 17, 2006

エリートはどこへ行った -心のメール

12月7日のこの欄に「イートン校の運動場」という記事を載せました。そして、「エリートを『楽な人生を送る特権階級』と見るのは誤りであり、エリートというのは庶民の味わう楽しみを犠牲にしてでも、公のために尽くすことを喜びとし、ノブレスオブリージュ(貴人の義務)を果たし、辛い運命に耐えることのできる者のことです」と言い、さらに「日本にはこういうエリートはもういません。なぜそうなのか?」と書きました。
日本にはなぜ本来の意味でのエリートはいなくなったのか? いろいろ議論はあるでしょうが、最も説得力のある見方は、アメリカ占領軍による「エリートつぶし」が発端で、それに日本のマスコミや官界が追随したというものです。自分の利益を考えず、公のために尽くし、賄賂(わいろ)などは取らず、経済的には恵まれなくとも、人間として生まれてきたからにはなにか意味のある大きな仕事をしてから死ぬというエリートの存在は、米英などの連合軍にとっては非常に恐ろしいものでした。こうした日本のエリートに似た人々はアジア諸国にはいませんでした。明治以来の日本のエリートたちが、日本の近代化を推進してきたのです。彼らを育んだのが、第一高等学校をはじめとする旧制高校でした。全寮制で、教師との繋がりは密でした。彼らは金儲けなどに狂奔する「栄華の巷(ちまた)を低く見る」という気風を持っていました。
日本を占領した連合軍は、日本を再び立ち上がれない存在にするためには、エリートをつぶさねばならないと考えました。こうして伝統ある一高(東京)、ニ高(仙台)、三高(京都)といったいわゆる「ナンバースクール」は廃止されました。代わって力を得てきたのが、人間の能力には差はない、みんなが平等でなければならないという思想でした。古いエリートに代わって「受験秀才」たちが生まれました。そして彼らが、いま世間でいわれているような「エリート」とみなされるようになっていったのです。
しかし、正常な民主主義社会には、本来の意味でのエリートが必要だということは、世界の常識です。自分の幸せばかり考える庶民だけでは、どんな社会も成り立ちません。こうした常識の拡大に励まされ、さらにこれに懐旧の情が加わって、かつてのエリートたちは、旧制高校の復活を唱え、秋には「寮歌祭」を開いて気勢を上げてきました。けれども今さら旧制高校の復活というのは、どうしても時代錯誤のそしりを免れません。それでもエリートは必要です。どうすればいいのか?
トヨタ自動車やJR東海が出資し、広大な敷地内に全寮制の中高一貫校を作るという試みが行われ、間もなく開校します。「東海学園」という名前だそうです。15日の日曜日、フジテレビの「報道2001」で、文科相や、JR東海の葛西会長が出演してそのことを語っていました。この学校の成功は間違いないでしょう。今後もその展開を見守ってゆきたいと思います。

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COMMENTS

1 : 寮歌祭 : January 17, 2006 03:08 PM

旧制高等学校の寮歌は意気軒昂な旧制高校生達の心意気が伝わってくるような歌詞が多く、私も良く歌ったものです。
毎年日比谷公会堂で行われていた寮歌祭はTVの中継でしか見たことはありませんが、破れ袴にテカテカの学生帽と言ったいでたちには馴染めない感じでした。
旧制高校の卒業生が高齢化してしまい、寮歌祭も自然消滅したのか最近中継もないように思えます。
儒教教育、武士道、そして明治維新後は、先生の仰っている旧制高等学校のエリート教育が、ノブレスオブリージュを育んできたのだと思います。
ノブレスオブリージュという精神は、エリートだけが持っていた訳ではなく、形や程度の差はあっても、庶民の中にも「我が身を捨てて」、とか、「損得度外視」、と言う形でノブレスオブリージュ的な生き方をしている人が巷に数多く存在していたと思います。
そうゆう人をも阻害するような風潮が一般的になってしまったのも、情けない世の中になってしまった原因の一つだと思います。

廣淵先生のお説には無関係な話ですが、新制高校の在校生・卒業生による校歌祭が毎年10月に日比谷公会堂で行われるようになり不肖私も毎年参加出演しております。

2 : リッキー : January 17, 2006 10:58 PM

 東海学園が始まりとなり、全寮制の学校が増えれば日本にもまた真のエリートが生まれるという期待があります。私は全寮制の学校に入っているわけではないため、今からその様な環境に移されてところで馴染めるとは思えませんが、小さいうちから寄宿舎に入り訓練をされる学生は、世の中のことやその他日本の将来について考えるのが当たり前の環境に置かれることと思います。今に日本には、先生がおっしゃるようにエリートがいないと思います。残念ながら私もエリートではありません。このままではいけないとは思っていても、確固たる使命を持って生きているわけではありません。今後日本に真のエリートが現れることに期待したいです。

3 : 湖の騎士 : January 17, 2006 11:30 PM

寮歌祭様 ご指摘のとおりノブレスオブリージュの精神をもっていたのはエリートだけにかぎらず、日本社会の普通の人々がこの感覚をもっていました。それが日本のすばらしさでした。そうしたかけがえのない価値観が消滅してしまいました。旧制高校で過ごした青春を懐かしむ高齢者の方々が、日比谷公会堂などで繰り広げる寮歌祭には私も違和感を覚えていました。しかし歌そのものは今でも愛されるに足る歌詞でした。少なくともこうした寮歌の精神はもっと広く普及してほしいものです。それにしても新制高校の校歌祭に毎年出演しておられるというのは羨ましいです。青春がそのままよみがえってくる感じでしょう。情熱だけでは参加できず、やはり相当の歌唱力をお持ちのゆえだろうと拝察します。今後も歌いつづけてください。

4 : 悠々 : January 17, 2006 11:47 PM

ごめんなさい。名前入れ忘れたのか、先生に「寮歌祭様」と、言われてしましたが、時々お邪魔して、見当外れのコメントを書かせて頂いている、悠々でした。
校歌祭参加の主目的は終了後の反省会での飲みかつ歓談にあります。

5 : 湖の騎士 : January 18, 2006 09:23 AM

リッキー様 東海学園の発足とその意義、日本における晋のエリートの必要性などについての貴方のコメントは、説得力に富み、この問題を本当に理解していることをうかがわせます。自分はエリートではないと自覚しておられますが、それでもエリートの本質は理解するという態度はフェアで柔軟な認識能力をお持ちだということを語っています。今後も醒めた目とあたたかい目を併せ持ってこの学園の展開を見守っていきましょう。

6 : 湖の騎士 : January 18, 2006 10:00 AM

悠々様 「寮歌祭」が悠々さんだということは、もちろん分かっていました。しかし機に応じて変名を用いようというしゃれ心から、今回は「寮歌祭」と名乗られたのだと思い、「実に楽しいこと(方)だ」と感じていました。そうですか、校歌祭参加の主目的は終了後の反省会での歓談とお酒でしたか。これまた人間的でよく理解納得(?)できる動機です。秋までにはまだだいぶ間がありますが、喉を鍛えかつ大いにうるおしてください。