View of the World - Masuhiko Hirobuchi

November 05, 2006

メモを見ることは大いなる恥 -

いじめで苦しんだ小学生が自殺すると校長が記者会見します。自分の身内や親しい業者に県や市の工事を発注していた知事や市長が、悪事がばれて記者会見をします。こういうとき、実に不思議なのは「メモを読みながらしゃべる」ことです。そんなに複雑なことをしゃべるわけでもなく、長時間を必要とするのでもないのに、カメラをまともに見ず、用意されたペーパーを見ています。当然ですが、謝罪のコメントにもまったく反省の色はなく、心はこもっていません。たかだか3、4分のコメントであり、しかも問題の本質は知りつくしているはずです。視聴者(カメラ)の方を見ず、ひたすらペーパーを見ていてどれだけの説得力があるというのでしょうか? これはもう被害者や納税者に対する大きな罪です。これにならったかのように、最近では記者や解説委員もひんぱんにメモを見ます。そのことが、いかに日本社会から「真実」を遠ざけていることでしょう。事前に用意したものがなければ、何も話せないというのでは情けなさすぎます。状況に応じて、用意したのとはまったく違うコメントをしてもよいではないですか。いやむしろそれが本来の姿だと思います。「メモを読むことは恥だ」「メモを読まない人間が本物で、読む人間はうさん臭い」という常識がもっと広く行き渡ってほしいものです。

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COMMENTS

1 : tiakujo : November 6, 2006 12:34 AM

ふつうのオバサンだって、ああした校長の会見には憤りを覚えました。
みんながもっと表面で、憤りを表さないといけないのですね。

2 : 湖の騎士 : November 6, 2006 10:23 AM

tiakujo様 「みんながもっと表面で、憤りを表す」というのはむずかしいでしょうが、あんなペーパーを読むだけで「義務を果たせた」と思っている精神が情けないです。卒業式などの「祝辞」にしても、5分間くらいのものはメモなどを見ずに、生徒や来賓の顔を見ながら述べることは可能です。事前に3、4点の重要項目を話すのだと決めておけばよいことです。「ペーパーを見るのは情けなく、恥ずかしいことだ」という単純な価値観が行き渡ってほしいです。国の運命を決めるくらいの重要な局面で、ウィンストン・チャーチル英首相が記者団に対してメモを見ながら話したのを見たことがありません。

3 : 悠々 : November 6, 2006 10:33 AM

日本人は人前で話す訓練とかをされたこともしたこともないから、メモに頼るんだと思いますが、みっともないですよね。
学校でも、式辞とか答辞とかを巻紙に書いて読み上げる、あんな習慣がメモの読み上げに繋がって居るのかも知れません。
私はスピーチとかする時には、要点を箇条書きにしておきますが、それを見ることはしません。
箇条書きは自分の考えを纏める為の頭の整理です。
話し始めたらメモのことは忘れて、聞く人の反応を見ながら話を進めますから、準備した内容とは違った話になることもあります。
会場を見渡しながら反応を確かめて話すのは一種の快感でもあります。
話の内容に頷いて呉れる人が居たりすると楽しいです。
今、流行り?の「お詫び会見」でメモを棒読みするのなんかは論外ですよね。
話す人の誠意なんか微塵も感じられないし、逆効果です。

4 : 湖の騎士 : November 6, 2006 12:41 PM

悠々様 お考えに大賛成です。そこで「いつごろからメモを見るようになったか。なぜ見るのか」を考えてみました。どうもこれは知性・感性の劣化と関係がありそうです。というのは、私たちが子供のころは、卒業式で校長先生がペーパーを見て話したという記憶がないからです。大学に入っても卒業するときも、学長はメモなんかほとんど見ませんでした。では「なぜ」見るようになったかですが、これは「事前にマスコミや野党に配ったコメントと実際にしゃべったことが一字一句でも食い違うと、クレームがつくからーーということが考えられます。これはあくまで推測ですが、もしそうだとすれば、取材記者や野党議員の思い上がりであり、勉強不足です。この問題には「発言の当事者も」「取材する側も」考えるべきことが多々あります。

5 : 悠々 : November 6, 2006 04:26 PM

湖の騎士様
私は小学校だか中学校だかの卒業式で答辞を読まされた事があります。式の前に封筒に入った答辞の原稿(学校側が書いた)を渡され、一回試読させられて、それを壇上で読み上げました。私の考えとかは一切入っていない内容です。
学校に感謝し、先生方にもお礼をくどくど述べる内容で、私にとっては不本意な文面でしたが、仕方なくその通りに読みました。学校にはもの申したいこともあり、感謝などしたくもない教師も居たのですが、そんなことを言う事は出来ませんでした。
高校でも式辞も答辞も書いたものを読んでいたように記憶しています。
大学での卒業式では流石に学長は自分の言葉で喋っていたと思います。
私は小中高は公立でしたし、大学もマスコミが取材にくるほどの学校ではなかったから、用意した原稿を読むほどの必要性はなかったのに皆式辞とかは読み上げ方式でした。
廣淵先生と私では、それほど年齢差はないと思うのですが、その十何年かで変わったのでしょうか?

6 : HANA : November 6, 2006 09:19 PM

「謝罪会見」でメモを読むのは「謝罪」する気持ちがないからではないでしょうか?
メモの内容を誰が考えたのかは分かりませんが、余計なことは言わないようにすることしか頭にないのでしょう。

また、そういう時の記者の質問もあまり感心しないことが多いように思います。会見する人への怒りがあるからでしょうが、怒りが先走って本質をついた質問がされていないように感じます。(あっ、私が見ているのはワイドショーのようなものが多いからそういう所の記者だからかな?)

どなたの言葉かは忘れてしまいましたが、こんな話しを聞いたことがあります。

「私は1時間2時間のスピーチだったら今すぐにでもできる。しかし、5分でと言われたら何時間も練らなければならない。」

私はスピーチをする機会などそうそうありませんが、この言葉はなぜかとても心に残っています。

謝罪会見はスピーチとは違い、どんな場合も今すぐにでもできるもののはずです。今、自分が思っていることをそのまま話せばいいからです。起承転結なども考える必要はありません。

それにしてもよく練られた気の聞いた話しを聞くのはとても楽しいものです。先生の文章を拝読していると、きっとお話しもテンポよくて楽しいだろうなと思います。

「スヌーピーたちのアメリカ」を注文したのですが、新刊と違い、こちらは時間がかかってまだ届いていません。(他にも注文したものがあって、その在庫確認などもあり、時間がかかっています)
今週中には届くと思います。楽しみです。

7 : 湖の騎士 : November 8, 2006 12:18 AM

悠々様 小中学生のころ答辞を読むというのは大変な秀才だったということですね。しかしその文章を書いたのが教員だったとするとそのメンタリティに問題があります。いかに拙くとも(失礼!)、答辞は生徒の自主性に任せるべきです。それが教育の根幹ではないでしょうか? しかし先生方は、自分および学校に不利なことを言われるのを恐れてか、あるいは生徒はろくな文章が書けないと思っているのか、下らない文章を押し付けるもののようです。かくて、一律の何の個性も感動もない答辞や祝辞が全国の卒業式や入学式に氾濫し、みんなお仕着せの思想に染まってゆくのでしょう。私はまだ生徒の自主性が尊重されていた最後の世代に属しているのかも知れません。

8 : 湖の騎士 : November 8, 2006 12:34 AM

HANA様 コメントをありがとうございます。一度お礼を完成したのですが、自分のメールアドレスなどを載せなかったために掲載できませんでした。明日あらためてお礼を申し上げます。

9 : 湖の騎士 : November 8, 2006 10:34 PM

再びHANA様へ 「1時間2時間のスピーチならいつでもできるけれど5分のスピーチとなると何時間もかける」というのは、本当に名言です。こういう貴重な言葉をご紹介くださり、まことにありがとうございます。結婚式、入学式、卒業式などで何度か5分間スピーチをしてきましたが、毎回何日もかけて練りに練りました。そしてリハーサルをして、超過しても15秒以内、足りなくても15秒の誤差に収まるように努力したものです。私の文章から「たぶん話もテンポがよいのでは?」と想像していただいて光栄です。退屈でないように心がけているだけです。『スヌーピーたちのアメリカ』への関心を持続してくださってありがとうございます。早くお手許に届くといいですね。