View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 04, 2008

A.ソルジェニツィン氏の死 -

ロシアの作家でノーベル文学賞受賞者のアレクサンドル・ソルジェニツィン氏が、日本人の8月4日未明に89歳の生涯を終えました。氏は「ペン1本でソ連を変えた人」といわれるほど、その作品がソ連体制の崩壊に向けて果たした役割は巨大でした。今の日本では、マスコミは当然氏の業績を客観的にかなり正確に伝えているものの(これは当たり前のこと)、教育界や一般産業界の人々、さらには一般の人々がどれほど氏の存在を知っていたかはきわめて疑わしいものがあります。ましてや彼の作品のインパクトの大きさといわれても、共産主義体制下における強制収容所についての知識もイメージも関心もない人々には理解が不可能でしょう。もしソルジェニツィン氏の作品を1編でも読んでいれば、絶対のしないであろう愚かな発言をする政治家もいたのです。世界の現実についての「原則」を知らない党首がいる政党に政権が取れるはずがありません。せめていちばん短い有名作品『イワン・デニーソヴィッチの一日』(新潮文庫)くらい読んで、「20世紀というのはどういう時代だったのか」「自由というのは人間にとってどれほど価値があるものか」を追体験する人がふえてほしいものです。
氏は一時アメリカに亡命しヴァーモント州で執筆活動をしていましたが、94年に祖国ロシアに帰りました。私は彼がソ連を追放され、まず西ドイツのノーベル賞作家ハインリッヒ・ベル氏の私宅に身を寄せることになったとの東京本社からの報と命令を受けて、ロンドンからボンに飛び、空港からタクシーでボン郊外のベル氏の家に向かいました。寒い2月の夜でした。記者会見は行われず、ソルジェニツィン氏を一目見ようと集まってきた西側の記者たちを失望させました。そんな派手な会見を行ったりしたら、身に危険が及ぶ怖れもあったのでしょう。ただ粘りづよく待っているうちに、曇りガラスの向こうに一人の人影が動くのが見えました。体形からいって、それはベル氏のものではなく、まちがいなくソルジェニツィン氏でした。歴史の一コマを目撃したという気がしました。人間の自由のために節を曲げずに執筆活動を続けた偉大な作家のご冥福を心から祈りたいと思います。

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COMMENTS

1 : 職人希望 : August 5, 2008 06:53 AM

おはようございます。
『イワン・デニーソヴィッチの一日』、読まなきゃと思いながらそのままにしてありました。今週中には読みたいと思います。
出張の際、羽田空港で絵本「ずーっとずっとだいすきだよ」 を下の子のために買ってきたのですが、全く反応なしでした。それぞれ感じ方が違うのはしょうがないですね。

2 : 湖の騎士 : August 5, 2008 09:34 AM

職人希望様 下のお子様に絵本を買ってこられて全く反応なしというのは、残念でしょうが、ある日突然興味を持つということもあると思います。ソルジェニツィンの小説も人によっては「なんでこんなものに世界が大騒ぎしたんだろう?」と思うかもしれません。とくに最近の日本ではそういう人が多いと思います。しかし『イワン・デニーソヴィッチの一日』は、明日という日が見えない絶望的な状況の中で、ユーモアさえまじえながら収容所の生活を描ききっています。楽しまれるといいのですがーー。

3 : Anonymous : August 6, 2008 07:13 AM

アレクサンドル・ソルジェニツィン氏のお名前と業績については知っているつもりになって居ましたが、氏の作品を読んだ事はありませんでした。私の知識は全て報道とかの伝聞に基づくものでした。先生のブログで氏のご逝去を知り、早速近くの大型書店に行きましたが、調べて貰っても氏の著書は一冊も在庫していませんでした。仕方ないので帰宅後すぐに『イワン・デニーソヴィッチの一日』(新潮文庫)をアマゾンに発注しました。おそらく今日あたり配送されると思います。
先生がロンドンからボンに飛んで氏の身を寄せて居る家に行かれた事、素晴らしいご体験でしたね。例え直接会えなかったにしてもその姿を垣間見たという事だけで、「歴史の一コマを目撃した」という実感をもたれたのは凄い事です。感動された事でしょう。我々は先生のご体験されたほどの劇的な出来事ではなくても、毎日毎日歴史的な出来事に遭遇している訳です。
アンテナをのばして、その歴史的一瞬の遭遇を見逃さず、感動するという感性も忘れずに居たいものです。

4 : 湖の騎士 : August 6, 2008 09:51 AM

Anonymous様 コメントありがとうございます。ソルジェニツィン氏の名前は聞いていても、彼の作品を読んだ日本人は少ないです。しかし氏が経てきた苦しみと氏が描いたソ連の強制収容所の現実を知らない人の国際認識は、根本のところで間違っています。日本人は先の戦争を引き起こしたことへの反省はしますが(すべての日本人が戦争を引き起こしたのではなく、軍部と官僚でしたが)、その割には世界のことを知ろうとする知的欲求を欠いています。20世紀を揺るがした共産主義が、どういうシステム(強制収容所、密告、一党独裁、言論統制等々)の下で維持されていたかを知らなければ、過去も現在も未来も全く見えてきません。日本の新聞のソルジェニツィン氏への追悼記事は、NYタイムズなどのそれに比べて本当に貧弱で、通りいっぺんのものでした。『イワン・デニーソヴィッチの一日』は、あるいは少し退屈か苦痛を覚えられるかも知れませんが、笑いが入っているところが救いです。

5 : 湖の騎士 : August 6, 2008 12:47 PM

Anonymous様 追伸です。私の記事をお読みになり、早速『イワン・デニーソヴィッチ』ご購入の手続きをされたとのこと。ご行動力と知的好奇心に心からの敬意を捧げます。なかなかそこまでできる方はいません。

6 : 悠々 : August 6, 2008 01:15 PM

Anonymousは悠々でした。署名を入れ忘れたようです。
『イワン・デニーソヴィッチの一日』が来次第読みたいです。
暑いから陽気に逆らって絵を描いて暑さを忘れようとしているのですが、この暑さは強かです。暑気払いという訳には行きません。先生も暑さ負けなさらないようご自愛下さい。

7 : ひげとの : August 6, 2008 02:41 PM

3年ほど前、ギックリ腰になって1週間動けなかったとき、20年ぶりに『収容所群島』を読み返してみたことがありました。なさけない苦痛の中で、こころをうたれたことをメモし、椅子にすわる体勢がとれるようになってから、一文に構成しました。『収容所群島』という大瀧が、遠い遠いところへ飛ばした飛沫の跡です。


《孤独な戴冠》

1915年生のミハイル皇帝という名前は、ロシアの歴史書には書かれていない。この若い皇帝は、ソルジェニツインの『収容所群島』ルビヤンカ監獄に、不意に登場する。

『男は間のぬけたような、とびきり柔和な顔つきをしていた。眉毛はほとんど白かった。』
監獄の先住者たちは、途方にくれた様子で現れた若者に、収監されて来たわけを聞く。
『「それでも、やはりなんでだ」
「私は.......檄文を書きました。ロシア国民宛に」』
『「それにしても檄文とはどういうわけで書いたのか、いったい誰の名で?」
「自分自身の名で」
「あなたはそもそも何者かね」
新入りはすまなそうに微笑を洩らした。「皇帝です。ミハイル皇帝です」』

モスクワの機関手の1歳の息子ヴィクトルは、家を訪れたブロンドの顎ひげを生やした正体不明の老人に、特別な祝福を受ける。27年後、再びあらわれた老人にいきなり帝位を神授され、庶民の母親は腰をぬかしてしまう。
1953年に政権が交替して、ヴィクトルが全ロシアの皇帝ミハイルになるというのだ。
すでにロシア革命から25年が過ぎて、人類の未来を僭称するソヴィエット共産主義は、収容所群島を生み出しながら、驀進している。

『彼自身も今どき全ロシア皇帝であることがどんなに時代遅れで滑稽なことか、よく承知していたのだ。だがしかし、いったん主が彼を選んだからには、もうどうしようもないではないか?!』
ヴィクトルは仕方なく神の命に従って、皇帝の目で、民の暮らしと社会を見てみた。すると、それは進歩どころか悪化の一途なのだ。民の暮らしをどうにかしなければいけない、皇帝としての責任感からの悩みが始まる。

『収容所群島』からは、ミハイル皇帝の発した檄文の全文を知ることは出来ない。
ソルジェニツインの描写の中に、内容の断片が見られるだけだ。
自ら農業大臣となってコルホーズを廃止すること。国債の発行をやめること。
労働者の住宅を増設すること。クレムリンを完全に消滅させること、などである。
また、巻を隔てたところで、ソヴィエット共産主義は第2次農奴制だと考えていたことが書かれている。どれも生活実感から発した堅実な政策である。圧制の本質も見抜いている。

『この全ロシア皇帝を嘲笑するために若い取調官たちもやって来た。』
『私たちも監房の中で時には笑いをこらえることができなかった。』
『みんなが彼を笑いものにしていたのだ』

兵もなく従者もなく、周りの全ては帝政の敵、なんと痛々しい皇帝だろう。

ヴィクトルはある時期、後にソビエト連邦の首相となったフルシチョフの、運転手をしていたことがあった。
『1953年のミハイル皇帝の即位に関する、ブロンドの顎ひげの老人の予言は、主人と運転手を入れ替えれば実現したのだ。ほんのちょっとした間違いだったのだ』と、ソルジェニツインは章末に注釈を付けている。


『』内引用は、絶版となった新潮社 文庫版『収容所群島』から

8 : 湖の騎士 : August 6, 2008 06:24 PM

ひげとの様 たいへん面白いご力作をありがとうございました。旧ソ連の虚実が生き生きと描かれています。『収容所群島』が絶版になっているとは知りませんでした。本を読まない人が多い時代に、これだけの長編を読破した方がいらっしゃるというのは感激です。これを翻訳された木村浩先生は初めてお会いしてから間もなく亡くなられました。これだけの大著を訳された業績というのは大変なものです。ソルジェニツィン氏のご冥福と共に、木村先生のご冥福をお祈りしたいと思います。