View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 24, 2009

1989年夏 東欧で起こったこと -

2009年、人々は「あれから20年」ということを、なにかにつけて思い出しました。NHKテレビは毎日のように「BS20才(はたち) ドキドキ(キ)!」という自社PRを流しています。「そうか、衛星放送が始まってもう20年が経つのか!」と人々は思いますが、このBS放送が日本の言論や文化、経済にどのような影響を与えたのかについては、ほぼ誰も論じません。おそらくBSなるものをどう扱ってよいのか分からないのでしょう。次に人々が思い出すのは、1989年6月4日、北京の天安門広場で起こった惨劇です。自由を求める学生たちのデモに向かって、中国人民解放軍は銃撃を加えました。このために死んだ若者たちの数は3000人を超えるだろうといわれましたが、中国当局の発表ではその十分の一くらいです。アメリカのCNNが、デモの発生から銃撃の現場まで一部始終を生で中継していましたから、専門家が見ればどのくらいの犠牲者が出たかは明らかでしょう。中国当局はこの学生たちの動きを、国家体制を覆らせる危険な「暴乱」と見ました。それを取り締まるためには武力しかないと最高指導者鄧小平は判断したのです。「そうか、中国では『自由』を求めてもいけないのか」と世界の人々は暗澹たる気持ちになりました。とにかく89年の前半は、自由にとっての絶望的な映像が世界を駆けめぐったのです。この映像の送信を可能にしたのは、「放送衛星(BS)」ではなく「通信衛星(CS)」でしたが、テレビに登場する論客の多くは、BSとCSの区別がついていません。しかしそれを指摘するのは、この記事の目的ではありません。
さて、中国からは人間の自由についての、気持ちが滅入ってしまうテレビ画像が送られてきましたが、ヨーロッパからは、希望に満ちた心を揺さぶる映像が送られてきたのがこの年です。そのクライマックスとなったのが、いうまでもなく11月のベルリンの壁の崩壊でした。実に38年ものあいだ、人間の行き来を阻み、自由がなく息が詰まるような生活に耐えかねて壁によじ登ってでも西へ逃れようとする東ベルリン市民を、東ドイツ政府は背後から銃撃しました。その涙と血が滲んだ圧政のシンボルである忌まわしい壁を、東西ベルリンの市民はハンマーや槌で東西双方から叩きこわしたのです。壁の上によじ登り涙を流して抱き合う東西の市民たち。その上に流れるベートーベンの第九交響曲の「歓喜の合唱」! Alle Menschen werden Bruder --(すべての人々ははらから(兄弟、同胞)となる」というシラーの詩が現実のものになった喜び。この場面は世界の人々を感動させました。どんな状況にあっても、けっして絶望するな。まだ希望はあるのだーーということを、これほど具体的に示した映像は(しかも同時生中継で)他に類を見ません。
日本の皆さんの多くは、この場面を見て感激しました。しかし映像の印象が強烈なあまり、どうも皆さんは「なぜこんな奇跡みたいなことが可能になったのだろう」と、順を追って冷静に考える余裕がなかったようです。すべてはあまりにも突然やってきたという感じでした。だがそんな魔法のようなことがこの世に起こるはずがありません。感激の場面の背後には、冷徹な国際政治の現実がありました。BS,CSに代表される西側の電波の東への流入といったこともありました。それらを総合的に考えないと、この年にベルリンの壁が崩れた意味は理解できません。
とにかく、東ヨーロッパでの無血革命の第一歩はハンガリーから始まりました。5月、ハンガリー政府は国境を開放しました。とくに西側のオーストリアとの国境を開放したことが、決定的な意味を持ちました。これで、チェコスロバキ、ルーマニア、ポーランド等の国民は、ハンガリーを通過して西側に出ることが出来たのです。この夏、自家用車で徒歩であるいは列車で、西へ西へと向かう人々の列がハンガリーの平原を陸続と移動して行きました。もはやどんな圧政的な政府も、この流れを止めることができませんでした。ではハンガリーはなぜこのような歴史的大英断を下すことができたのでしょうか。この続きは次回とさせていただきます。

[Post a comment]

COMMENTS

1 : niraikanai : August 25, 2009 10:31 PM

先日、初めてニュースで「汎ヨーロッパピクニック」という言葉を知りました。高校時代の世界史で習った記憶は残念ながらありません。ハンガリーから西(オーストリア)へ門が開放されたことを今年初めて知り驚きました。(無知だったことを同時に恥ずかしくも感じました)

1989年、私はまだ小学生でした。天安門事件の生々しい映像はうっすらとしか覚えていません。中国、となりの国の出来事なのに「私とは関係のない、遠く離れた国のこと」という印象を受けました。続くベルリンの壁の崩壊は、あまりに突然で「すごいことが起きるなぁ」と思ったものです。
ただその当時は「お祝いムード」ばかり先行して、なぜ壁が崩壊したのか、なぜ無血革命が成功したのかを考える余裕が確かになかったように思います。

先週のニュース(NHKでした)で見たハンガリーの映像。東西を分かつ門の警備員も、西へ行こうとする人々を手助けした、政府も裏で関わっていたと言っていました。その詳細は説明されませんでしたが。
先生の次の記事をたいへん楽しみにしております。

2 : 湖の騎士 : August 26, 2009 04:16 PM

niraikanai様 1989年にまだ小学生だった若者がこの記事をお読みになるということに驚いています。冷静に考えれば当たり前のことなのですがーー。とにかくこの年に東ヨーロッパで起きたことは、本当に重要でした。いくつかの前段階がありました。面倒に見えてもそれをひとつひとつ繋ぎ合わせて、まとまったストーリーとして構成しておかないと、「世界の今」が見えてきません。日本人はこの点、実にのんびりして「なに、他国の事だよ」という顔をしていますが、東欧で起こったことは、明日にでも我が身に起こりかねないことです。中国人の反日感情が突然生まれてきたのも、この89年からです。表面に出たいくつかの現象は一見関係がないように見えても、地下茎のように根では繋がっています。それを次回以降、見てゆきたいと思います。

3 : alien : August 26, 2009 11:52 PM

「なぜ、ハンガリーは大英断をくだせたのか….」続きが待ち遠しいかぎりです。
続編をワクワクと待ちながら、ごく最近知人(日本人)から聞いた旧東ドイツの話をご紹介しようと思い立ちました。旧東ドイツにまつわるエピソードは沢山あることと思いますが、直接の体験談は臨場感があると思いますので当時の雰囲気を知る情報の一つになれば幸いです。知人は音楽の愛好家で旧東ドイツの某プロのオーケストラが定期的に来日するたびに自宅に何人か楽団員の人たちを招いていたそうです。心おきなく飲んで、食べて、弾いて、騒いで、とても楽しい交流の思い出だそうですが、その成功の秘訣は、特に親しい楽団員の方に「誰でもあなたの好きな人を連れて来ていいよ」という誘い方をしたからだそうです。もし、「○○さんの演奏は素晴らしいから、あの人も是非連れて来て」というような指名型の誘い方をしていたら、旧東ドイツの人は誰も心が休まらなかっただろうとのことでした。なぜかというと、どの組織にも言動を見張るよう当局の使命を帯びた密告者が必ず配置されていて、お互いにそれが誰なのかは全く分からないそうです。実際に、当局への密告のために楽団を去った人も何人かいたそうです。当時を振り返り、「自由に本心で語れないのが一番つらかった」と旧東ドイツの楽団員さん達は今もおっしゃるそうです。
40年近く、いつも言動を見張られている生活の息苦しさはいかばかりかと想像を絶してしまいます。あ、もう一つ、これはややびっくりネタですが、親は子供が10歳になったら自動車を注文したそうです。納品までに10年かかるため、そうすると子供が20歳になった頃、ちょうど車が家に届いたそうです。では、では、続編を楽しみにしています!

4 : ベル : August 27, 2009 01:46 AM

こんばんは。いつも楽しみに足を運ばせていただいております。本当に他では知りえない貴重なお話をありがとうございます。
1989年は私も小学生でした。世界史の勉強は好きでしたが、まだ現実世界のニュースを見ても何が起きているのかよくわからずにいました。この年に日本では年号が平成に変わりましたが、子供ながらに世界が移り変わるのを肌で感じた記憶があります。
表出した出来事たちには繋がりがあるのですね。歴史を学ぼうとして、つい点在するたくさんの事件を年号で覚えようとしてそれらが真に何を意味するのか難しく感じていましたが、流れとして世界を知ることができれば一本に繋がったありのままの姿がみえるのかもしれないですね。あまりにも広大な世界に感じますが。。
お話の続きを心待ちにしています!更新されるまでの間は、頭にちょっと風穴をあけるべく著書を愛読させていただくことにします^^

5 : 湖の騎士 : August 27, 2009 10:20 AM

alien様 東ドイツについての臨場感・緊迫感あふれる情報をありがとうございます。「誰が政府共産党のスパイなのか」を知ることができず、心を許して語れる友がいない苦しみがいかばかりであったかーーこんなにも暢気な生活をしている日本人には想像もつかないことでしょう。でも想像力がある人には、旧東陣営の人々の苦しみは理解できるはずです。子供が10歳になった時に自動車を発注すれば、10年後に手元に届くという話はどこか救いがあってほっとしますが、当人たちにとっては、それどころの話ではなかったのでしょう。そういう東ドイツを礼賛し、ホーネッカー議長が来日したとき、ただ一人嬉々として迎えた国会議員がいました。ベルリンの壁崩壊後、ホーネッカーは民衆の敵とされ、はるばるチリにまで逃亡し、そこで客死しました。この女性議員は自らの無知と、あの行動が恥ずべきものだったことをいまだに悟っていません。日本の左翼全般の情報量と国際感覚はそんなものです。

6 : 湖の騎士 : August 27, 2009 10:26 AM

ベル様 89年当時、小学生でいらした読者がもう1人おられることをうかがって、感慨を深くしています。私の頭に浮かんでいるいくつかの出来事(点)を、結び合わせて、なんとか「線」になるような、できれば「面」になるような記事にまとめたいと願っています。どうか今後ともよろしくお願いいたします。いつも貴重なコメントをありがとうございます。