View of the World - Masuhiko Hirobuchi

September 02, 2009

ハンガリーはなぜ東欧革命の主役になったのか? -

(前々回からの続きです)1989年5月、ハンガリーはオーストリアとの国境を開放しました。初めは自国民のみを対象にしていました。この決定に先立つ数年前から、ハンガリー政府は自国の国民が3年に1度オーストリアに出ることを認めていました。これは当時「ソ連の衛星国」と呼ばれていた東ヨーロッパの国々では、異例の政策でした。「そんなことを認めれば、自由を求める民衆は祖国に帰ってこなくなるではないか。とくに頭脳のすぐれた者たちが国を棄てると、国は空洞化してしまい立ちゆかなくなる。ハンガリーのやり方はきわめて危険な考えだ」と思う指導者が、東欧諸国には多かったのです。しかしハンガリーの共産党も政府も、ちがう考えをもっていました。「出国した国民が祖国に帰らないとすれば、それは祖国に魅力がないからだ」と彼らは信じ、国民に魅力のある国づくりを心がけたのです。国営の企業だけでなく、私企業を興す自由を大幅に認めました。そのために経済は活性化し、東欧圏のどの国よりも商品が豊富に出回るようになりました。この活気というのは訪れてみれば肌で感じられる類のものでした。それでも国民は3年に1度のオーストリア訪問を楽しみにしていました。その日に備えてドルやドイツ・マルクなど西側の通貨をせっせと貯めていました。買い物のお目当ては日本や西ドイツの家電製品やカメラなどでした。西側の製品はきわめて品質が高く壊れにくく、東側で手に入る類似品とは雲泥の差がありました。ポーランド、チェコ=スロバキア、東ドイツ、ルーマニアなどの人々の西側に対する憧れは大変なものでした。しかしこれらの国々からは、西側の自由主義陣営の国に行くことは禁じられていました。東側の共産圏諸国、いわゆる「鉄のカーテン」の内側の国に行くことはできましたが、最も行きたい西側へは行けない状態だったのです。その辺のところが、今もってまったく分かっていない日本人が多いのが現状です。政府が国民の移動・出国をコントロールすることは当たり前だという政治体制の下で、人々がどういう思いで生きていたかを理解しないでは、冷戦の意味も自由の価値もまったく理解できないでしょう。
さてハプスブルク家の下でかつて「オーストリア=ハンガリー帝国」の東の一員として栄えたハンガリーは帝国の解体(1918年)後も、西側のパートナーであったオーストリアに親近感を抱いていました。一方、第二次大戦後、力づくでソ連の支配下に組み込まれたハンガリー人は、東から来た粗野なロシア人に反感を抱き、軽蔑していました。自由への希望が、ソ連の戦車に踏みにじられた忌まわしい思い出(1956)は、誰の胸にも生きていました。そうした状況の中で、ハンガリー政府は外国人観光客を熱心に誘致しました。これはある意味で非常に危険な政策でした。大量の観光客が押し寄せれば、どうしても他国の情報が入ってきます。とくに西側諸国の観光客は、外貨とともに「思想」も「生活情報」も運んできます。今までは、東の共産主義・社会主義の方が西側の資本主義・自由主義よりも進んだ体制であると、事あるごとに民衆に吹き込んできた嘘が一挙にばれてしまいかねません。しかしハンガリー政府は、自国民のオーストリアへの出国を認めたのと同じように、他国人が自国に入ってくることも大幅に認め、むしろ歓迎したのです。自分たちがよほど善政をしいているという自信がなければ、できないことでした。

こういう状況になるまでには、長い前段階がありました。米ソ2大国の変化もありました。西側のテレビ電波が東に流れてきて、人々が「自分たちは長いあいだ政府と党に騙されていた」と悟ったことも大きく原因していました。それらについては、もう少し詳しく語らなければなりません(次回にでも)。とにかく5月に国境を開放してから約3か月後、8月19日に突如1000人もの東ドイツ人がハンガリーとオーストリアの国境に押しかけ、オーストリアへの出国を要求しました。ハンガリー政府はこれを認めました。東ドイツ人たちは、勇躍してオーストリアに入り、そこから長年住みたいと願っていた西ドイツに亡命しました。集団亡命でした。これがニュースになって各国に伝わると、他の東欧諸国から人々がハンガリーに殺到しました。「とにかくハンガリーまで行けば、あとはなんとかなる」と思う人々の群でした。ハンガリー政府は、オーストリアへの出国許可証を持っていない人にも入国を認めました。彼らはハンガリーを横切り、車や徒歩でオーストリアとの国境まで辿りつきました。この間に有名な「汎ヨーロッパ・ピクニック」という出来事も起こりました。大胆で細心の注意の下に断行されたこの国境開放へのエネルギーになったのは、先ほど挙げた1956年のソ連軍による自由の弾圧と、これに屈したカダル書記長の痛恨の思いでした。さらにこの国で初めてキリスト教徒となった聖ステファン(イストファン)王の王冠にまつわる外交上の成果があったと私は見ています。この二つについては、稿をあらためて語らせていただきます。

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COMMENTS

1 : Sako : September 3, 2009 08:08 AM

とても勉強になりました。
ハンガリーについては、ミラン・クンデラの描く様な世界だろうと位にしか考えたこともありませんでした。

続きを早く読みたいです。

2 : 湖の騎士 : September 3, 2009 05:08 PM

Sako様 お久しぶりです。コメントをありがとうございます。クンデラの作品にはチェコ=スロバキアの情報機関とか裏切りの世界が描かれているそうですが、似たようなことがハンガリーにもありました。ハンガリーの場合は、ソ連軍の戦車と銃弾によって命を失った人がチェコよりもはるかに多かっただけに、その痛みは長く尾を引いていました。続編はしばらくお待ちください。

3 : Anonymous : September 4, 2009 10:23 AM

ハンガリーが勇断を持って国境を開放したのには、ソ連の戦車部隊の動向が大きなファクターになっていたと思います。
ソ連が戦車部隊の派遣をしないという意思表示がハンガリーの勇気ある行動を起こさせた大きな要因になったと思います。
それまで東欧諸国は何回もソ連の戦車によって蹂躙されてきた苦い経験があり、それが足枷となってソ連に刃向かうことが出来なかったのだと思います。
ハンガリー政府が、ソ連は国境を開いても武力介入しないという見極めが出来たのは、的確な情勢判断が出来る優れた人材と情報収集力があったからでしょう。
ハンガリーの国境開放がソ連によって黙認されたのを見て、東独もベルリンの壁を取り去る勇気が持てたのだと思います。
日本の新しい政権も、アメリカ、中国、北朝鮮などにアンテナを張って的確な国際情勢の判断を持つ力を備えて国の行方を誤らない行動をとって欲しいです。

4 : 悠々 : September 4, 2009 10:25 AM

上段3の投稿は悠々です。名前を書かずに送信してしまいました。失礼しました。

5 : 湖の騎士 : September 4, 2009 05:05 PM

悠々様 まさにご指摘のとおりです。国境を開放した時点ではソ連との話は大方ついていました。話がつくためには、ソ連にもアメリカにもハンガリーにもすぐれた「役者」が必要でした。「できない政治家=三文役者」では阿吽の呼吸も理解できず空気も読めず絶好の機会も逸したでしょう。次回は東欧を取り巻く「大状況」について語りたいと思います。コメントをありがとうございます。

6 : alien : September 5, 2009 09:50 PM

周辺のソビエト連邦下の国々がソ連の顔色を伺って戦々恐々としているときに、ハンガリーはピクニックの前々から西側諸国との人の往来を積極的に進めていたとはこのたびの記事を拝読して初めて知りました。ソ連の実質的な支配下にあっても国家としての独自の思考を維持し、実行していたのは凄いと思います。かつてハンガリー帝国として培った歴史や文化が、国としての見識や誇りを温存したのでしょうか。ロマンティックなイメージでは、山賊に捕らわれた小国の王子様といった図に思われます。捕らえた方より、捕らわれた方が見識が高かったのですね。ソ連を山賊に例えるのは不敬きわまりないとは思いますが、歴史・宗教の根絶、大粛清、戦車等などのイメージが強いため、申し訳ございません。今後、ハンガリーが不当な目に遭わされることがあれば、恩を受けた人々や、ハンガリーの大英断を尊敬する世界の人々が黙ってはいないでしょうね。世界の民意を味方にするのは最強の防衛のような気がします。日本も自信を持って発言・行動し、他国からの信頼によって守られる国になって欲しいと思います。

7 : 湖の騎士 : September 5, 2009 10:25 PM

alien様 ここに書いたハンガリー政府の「開放政策」というのは、ソ連にゴルバチョフ書記長が登場するよりも4,5年前のことですから、大変に価値のあるものでした。私は81年に初めてブダペストを訪れ、ドナウ河にかかる5つの大橋の上に観光客があふれている様を見て本当に感動しました。建国記念日の花火大会があったのです。しかしその建国記念日を「屈辱の日」としたのは、56年のソ連軍の戦車でした。8月20日から21日の未明にかけて、一旦退去したはずのソ連軍は続々と国境を越えて侵攻してきたのです。このことは次回に書きます。「山賊に捕らわれた小国の王子様」というのは、じつに素敵なたとえですね。ソ連軍がヨーロッパでどれほど暴虐のかぎりをつくしたか、日本のメディアも教育者も政治家も、もっと真剣に学んでほしいものです。「世界の民意を味方にするのは最強の防衛」というご意見に全面的に賛同します。

8 : alien : September 6, 2009 08:20 PM

湖の騎士様 実際に目撃した一情景の描写というのは本当に力のあるものなのですね。つくづくそう思いました。ドナウ河にかかる5つの大橋を埋め尽くす外国人観光客の熱気やざわめきが伝わってくるようで、当時すでに水面下で形づくられていた時代のうねりを追体験しているような感じがして驚いています。貴重な描写をありがとうございました。

9 : 湖の騎士 : September 6, 2009 10:10 PM

alien様 いつも多大なお励ましをいただき本当にありがとうございます。私が歴史の変わる場面に居合わせることができたのは、自分の力ではありませんが、非常に幸運なことでした。大橋の上で聞いた言葉の圧倒的多数はドイツ語で、次が英語、スラブ系の言葉はごくわずかでした。ハンガリーはナチス・ドイツと組んで枢軸側として第二次大戦を戦ったのですが、西ドイツを恨んでいる人は多くない印象でした。国民は80年代初頭になっても(大戦が終わって35年以上が経っても)、ドイツ語への愛着を持ち、ドイツ語が話せることを誇りに思っていました。ロシア人への嫌悪とは対照的でした。そういうことが、日本の左翼にはまったく分かっていないのが残念です。真実を理解する力も、世界を知ろうとする「知的誠実さ」も持ち合わせていないからだと思います。