View of the World - Masuhiko Hirobuchi

September 09, 2009

ハンガリ-・東欧(中欧)・1989(その4) -

ハンガリーは1989年の「オーストリアとの国境開放」に先立つ数年前から、自国民が3年に1度オーストリアに出国することを認めており、その一方で多数の西側観光客も受け入れていたことを前回書きました。私がブダペストを訪れた1981年の8月には、ドナウ河の5つの大橋の上は観光客であふれていました。建国記念日の花火を見ようとする人々でした。聞こえてくるのはドイツ語が圧倒的でした。ハンガリーには西側の情報がどの東欧の国々よりも豊富に入ってきていたのです。とにかく3年待てば自由にオーストリアに行ける状態が、一挙に「いつでも好きな時に行ける」ことになったわけですから、ハンガリー国民が感じた「気分」というものがどんなものだったかは想像していただけるでしょう。
ところがこの自国民を対象にした国境開放情報が、他国に伝わるのも速かった。8月19日には1000人もの東ドイツ国民がハンガリー・オ-ストリア国境に押しかけ、西側への出国を求めました。ハンガリーがこれを認め、「集団亡命」が成功したこと、これを契機として大量の東欧人(現地の人々はこの「東欧」という呼び名に抵抗を感じ「中欧」という呼称を好んでいましたが、今までは分かりやすくするために「東欧」という呼び名を用いてきました。今後は併用します)がハンガリーに押しかけ、ハンガリー経由で西ドイツなどに亡命して行ったこと、これがベルリンの壁崩壊に繋がったことは、今までお伝えしてきたとおりです。

ではなぜハンガリーが他の中欧(&東欧)諸国よりもこれほど大胆に国境を開放し、西側の人々や情報の流入に寛大だったのでしょうか? 鍵となった人物はカダル・ヤーノーシュという共産党の書記長でした。彼は1956年10月のいわゆる「ハンガリー動乱」の際に、「もし貴国の戦車がブダペストに進入したら、私は街に出て戦う」とソ連の大使ユリ・アンドロポフに啖呵を切りながら、土壇場で寝返りハンガリー国民を裏切った男です。ナジ・イムレ首相とハンガリー人民がソ連に要求していたのは「ソ連軍の撤退、複数政党による選挙・言論の自由、スターリン像の撤去、ワルシャワ条約機構からの撤退、永世中立」といった、今日から見ればきわめて穏当なものでした。しかしモスクワはこれを座視せず、いったんはハンガリーから撤退したように見せかけたソ連軍戦車は、11月1日には続々と国境を越えて再侵入してきました。これに抗議して立ち上がったハンガリー国民のうちの3万5000人がソ連軍戦車の下敷きになり、砲弾で撃たれて死んだといわれます。11月4日、最後まで国民に忠実であったナジは、国営のラジオで悲痛な叫びを続けました。「ソ連軍が明け方、明らかにハンガリー人民共和国の合法的民主的な政権を倒す意図のもとに我々の首都に対する攻撃を開始した。我が軍は戦闘中である。私はこの事実を全世界にお知らせする」。しかし、西側諸国は折から起こったエジプトによるスエズ運河の国営化の動きに対処することに精一杯であったイギリスを筆頭に、とてもはるかなドナウの岸辺で起こった動乱に兵力を投入する余裕がありませんでした。いわばハンガリーは、自由主義諸国から見殺しにされたのです。やがてハンガリー国営放送は沈黙しました。最後を締め括ったナジ首相の言葉は、「これから発信される放送はけっしてハンガリー人民の意思を表したものではない。自由なハンガリーの放送はこれをもって終わる」というものでした。やがて発信地不明の電波が聞こえてきました。「東部ハンガリーでカダル・ヤーノーシュを首班とする革命労働者政権が誕生した」というものでした。ソ連大使に向かって「貴国の戦車と戦う」と宣言した男は、動乱の最中姿を消していたのですが、やがてソ連軍の戦車に守られて帰ってきたのです。明らかな裏切りでした。国民はこの恨みをいつまでも忘れませんでした。カダルは政権トップの座に就いて以来、ずっと「民族の裏切り者」という汚名に耐えなければなりませんでした。裏切りの中には、アンドロポフとの密約があり、ユーゴスラビア大使館に亡命したナジに「身分は保証する」と約束しながらこれを反故にして2年後に彼を処刑したことが含まれていました。カダルは片時も自分が民衆の支持を得ていないことを忘れませんでした。質素な暮らしを心がけ、人々の生活の向上に心を砕きました。私企業を起こす自由を大幅に認め、活力ある国づくりに挺身しました。過去はどんなことがあっても消せない。しかし人間は過去への恨みだけでは生きていけない。民衆にとって少しでも魅力ある国をどのように作るべきか。これが「汚名を背負って出発した」カダルの生涯のテーマでした。70年代から80年代にかけての、ハンガリーの政策の根底に、カダル書記長の「罪の意識」があったと見ることが重要だと思います。
1981年、ロナルド・レーガンがアメリカ大合衆国統領に就任しました。4年後、世界が見え、ソ連の体制の矛盾が見えている男ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任しました。中欧(&東欧)の「自由への道」は確実に整備されて行きました。レーガンの登場に先立つ3年前の1978年、アメリカからハンガリー国民の魂をゆさぶるような贈り物が届きました。大統領として失敗続きだったジミー・カーターが放った、唯一の外交的ヒットでした。これによってハンガリーの人々の親米感情は一挙に高まりました。この贈り物とは、自分たちが敬愛してやまない聖ステファン(イストファン)王がかぶった王冠でした。実に数奇な運命を辿ったこの王冠の遍歴の物語を次回にさせていただきます。

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COMMENTS

1 : Sako : September 10, 2009 09:07 AM

お久しぶりです。暫くジャワ島にいました。

今までは、冷戦時代の空気感が分からないので、東側諸国は陸でもない国々なので、諸処の理由はあるにしても自壊していった程度の認識でした。


カダル書記長が「罪の意識」を持ったことを不思議に思います。
なぜなら、スターリンや毛沢東を始めとして、自民族を騙し、虐殺しても、「罪の意識」を欠いた東側指導者がいるからです。

2 : 湖の騎士 : September 10, 2009 09:40 AM

Sako様 ジャワ島は私の父が民間人として勤務していたところです。まだ訪れたことはありませんが、常に特別の親近感を抱いています。ニワトリがアヤムでヒツジがビリビリというのだとか、キュウリにピーナッツを挟んだガドガドという食べ物のことを教えられました。さて、ハンガリーです。カダル書記長が罪の意識を持っていたというのは、自分が「歴然たる裏切り」をしたという自覚があったからでしょう。スターリンや毛沢東はそんな殊勝な了見は持ち合わせていませんでした。カダルは20年以上書記長として君臨しましたが、国民の間の評判は年ごとに向上してゆきました。彼を騙しあるいは彼と「共謀」したアンドロポフは、のちに情報機関KGB局長として辣腕をふるい、多くのロシア人を死に追いやりました。最晩年には共産党の書記長にまで登りつめましたが、その時は頭脳も体力も残っていず、まもなく死亡しました。

3 : 悠々 : September 11, 2009 11:24 AM

カダル書記長が贖罪のために復帰後に国民に尽くしたというのは興味があります。
私ならおそらく書記長の復帰後の行動に対しても寛容な気持ちにはなれないと思います。
カダル書記長が犯した国民に対する裏切りは彼の意志で行われたものではなくソ連の強制によってしかなく行ったものなのかも知れません。
今回の選挙で惨敗した自民党もカダル氏のように国民に対して贖罪の気持ちを持って今後の活動を行って欲しいものです。

4 : 湖の騎士 : September 11, 2009 02:52 PM

悠々様 カダル書記長のように犯した罪を償うという意識を持っている人は稀だと思います。自民党の諸氏も、贖罪とまでいかなくともせめて「責任感」を胸に抱き、言を慎み、行動を慎み、「国民の幸せのために尽くす」という姿勢を貫いてほしいものです。