View of the World - Masuhiko Hirobuchi

August 10, 2011

やたらに抱きつくドラマ -

NHKの「おひさま」と「江(ごう)」については何度か書きましたが、歴史の歪曲(わいきょく)ぶりはひどくなる一方です。とくに違和感があるのは、両者ともやたらに「抱きつく」シーンが多いことです。戦時中から戦後10年くらいの日本人は、やたらに喜怒哀楽を表しませんでした。悲しい時や嬉しい時に、感極まって泣いたり、人に抱きついたりする人はまず皆無でした。ましてや生徒が教師に抱きつくなどということはありえませんでした。精神的にも肉体的にも、尊敬する人とは一定の距離を置くのが「礼儀」であり「つつしみ」でした。べたべたと抱きつくなどは論外でした。ところが「おひさま」では、学校を辞めるといっては抱きつき、卒業式だといっては抱きついています。「江」にしても大阪城内で、恋人でもない男の胸に顔を埋めて泣きます。大名の姫がです。「なんとはしたない!」と思わせる行為です。今のディレクターは「抱きつくのが人間として自然な感情の表現だからこういう演出をするのが正しいのだ」」と思っているのでしょう。だが歴史を曲げてしまってはいけません。今の規準からいえば不自然なことでも、時代によっては当たり前であり、ごく自然なことも多いのです。日本では不自然でも、外国ではごく自然なことも多々あります。浅知恵で歴史を解釈するのはやめてもらいたい。ましてや受信料という「公金」を使って、個人的思想を押しつけないでもらいたいと思います。

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COMMENTS

1 : 悠々 : August 11, 2011 08:15 AM

「ハグ」という行為は先生ご指摘のようにやたらと人前で行う行為ではありません。ましてや戦時中、或いは戦国時代には絶対にあり得ない事です。
感情を内に秘めて、と言うのが昔の日本人のやり方でした。
向田邦子のドラマが今宣伝されています。これも何故かやたらとわめくシーンが放映されています。
向田邦子の脚本を忠実に取り入れているなら、やたらと大声を出したり、わめいたりというシーンはないはずです。
向田邦子の書いたドラマは好きだったけど、あれでは見る気がしません。
どこかの馬鹿なディレクターが今様にアレンジしたつもりなんでしょうが、それなら向田邦子の名前は使って欲しくないです。

2 : 湖の騎士 : August 11, 2011 11:17 PM

悠々様 コメントありがとうございます。同感していただいて心強いです。私がなぜ「抱きつき」とか「人前での涙」とか「城の廊下を走る無教養な姫」などを糾弾するのかというと、ディレクターや脚本作家はこういう演出をすることで、日本文化を壊すだけでなく、「自分の誤った歴史解釈を視聴者に押しつけようとしている」からです。彼らは「泣きわめくのが美徳」であり「喜怒哀楽を正直に表すのが人間として正しいことなのだ」と思い込んでいます。こういう人間が年間に何億という「公金(パブリックマネー)」を使って日本人の「思想改造」を行っているのです。これはまさに犯罪です。
向田邦子ドラマで、やたらと大声を出したり、わめいたりというシーンが多いとうかがい、ご不快の思いが想像できます。これもまた許し難い行為ですね。

3 : Sel : August 12, 2011 11:39 PM

時代考証に関する興味深い本を見つけました。

『歴史ドラマと時代考証』(中経の文庫)

著者はNHK大河ドラマの『秀吉』『功名が辻』『天地人』の時代考証を担当した小和田哲男氏。
この本ではドラマ作りの舞台裏を紹介していますが、読んでいて唖然としてしまったものを以下に3つ挙げます。

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●「史実よりドラマ性に軍配…」

【以下抜粋】
「史実では本当はこうだけど、史実どおりではおもしろみがない」
という場合、史実を変えるという場面も結構ある。
『天地人』で上杉謙信が亡くなるところを収録するときのことである。演出担当者から、
「謙信が倒れる場所をかえてもいいですか?」
という打診があった。

(中略)

「史実通り、厠で倒れる映像にしてほしい」
と言ったが、
「厠で倒れる姿を撮るのが難しい」
というのである。
いろいろ話しているうちに、謙信ほどの英雄が厠で倒れるというのも少しかわいそうな気がしてきた。厠はいまのトイレである。たしかに、映像にしにくい。そこで、いつも籠もっている毘沙門堂で倒れるというつくりにした。

●「本能寺で信長は鉄砲を撃ったか?」
「『鉄砲はなかった』と証明できないから……」

【要約】
『功名が辻』の本能寺の変の場面でドラマ性を重視して史実を変えた。
脚本では本能寺を明智光秀の軍勢に包囲されたとき、信長が鉄砲を持ち出し、明智軍の鉄砲隊と銃撃戦を展開した話になっていた。
小和田氏はだめだしをしたそうだが、結局銃撃戦が繰り広げられる映像が放送された。

弓矢―鑓―自害という流れではなく鉄砲を持たせた理由、それは信長役の舘ひろしさんに鉄砲を持たせたい、という脚本家の意向であった。
小和田氏は無理だと言ったが、「天正十年六月二日、本能寺に鉄砲が一艇もなかったという史料は見たことがありますか」と問われ、「だめ」と言うことができなかったという。
研究者としては史料にないことは言えないが、作家・脚本家は史料がなければ、その分自分の想像力でふくらませることができ、この場面で本能寺に鉄砲が一艇もなかったという史料がなければ鉄砲があったかもしれず、それを持ち出して明智軍に向けて撃ったとしてもいいのではないかという論法だったという。

●「役者のアドリブに時代考証も吹っ飛ぶ」

【要約】
『秀吉』ではまだ貧しい秀吉の家の食卓風景を撮ることになり、「大根は大丈夫」「里芋もいい」「豆腐はどうだろうか」「秀吉の家のように貧しいところでは買えないのではないか」などと言いながら出す料理をかなり綿密に決めていった。
ところが、実際の場面では、竹中直人さん演じる秀吉が「すし食いてぇ、天ぷら食いてぇ」と叫び(天ぷらはイエズス会の宣教師がもらたしたもので、もっとあとである)アドリブで綿密な時代考証が吹っ飛んだという。
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言いたいことはたくさんありますが、書ききれなくなってしまうのであえて書きません。

ただ、最後のアドリブの話に一つ疑問を持ちました。
時代考証家は撮影現場に立ち会わないのか――ということです。

予想通り、この後の話で

・重いはずの首桶を軽々と振り回されているシーンをテレビで見て、頭を抱え込んでしまった(『秀吉』)

・信長の部屋の備品をスタッフから聞かれ、「ビロードのマント、地球儀などはどうですか」と答えたところ、映像では望遠鏡も映っていてびっくりした(望遠鏡が入ってくるのはもう少しあと)(『天地人』)

といったことが書かれています。

何度も同じようなミスが起こっているにも関わらず、なぜ無理やりにでも現場に参加しないのでしょうか。
テレビの与える影響力を考えるならば、使命感や責任感持って何が何でも最後まで制作に関わるのがプロの仕事なのではないでしょうか。


ひとつ希望が持てることとしては、ドラマ中に間違いや疑問があった場合にはそのたびに視聴者からの電話や投書がいくつも寄せられているという点です。
制作者側の感度が低いのは非常に問題ですが、視聴者のこのような声がさらに大きくなり、作家・脚本家・演出家・役者・時代考証家…などの制作者サイドの意識が変わることを願います。


話は少し変わりますが、私は学生時代に短期間だけでしたが塾で中学生に歴史を教えたことがあります。
勉強が得意とはいえないクラスでしたが、ある時代の授業では多くの生徒たちが教科書には書かれていないことまで詳しく知っていたので驚き、感心してしまったことがありました。
なぜそんなに詳しく知っているのか尋ねたところ、NHKの大河ドラマを観て覚えた、とのことでした。
中学生くらいであれば良質の歴史紹介番組や歴史の本、時代小説などよりもドラマから知識を得る生徒の方が多いのではないでしょうか。

視聴者全てが史実とフィクションを見分けることが難しいと思われます。
そのことを制作者側はしっかりと考慮に入れるべきだと思いました。


最後に、時代考証に関する記事がネット上にもありましたのでリンクいたします。

「時代劇のエンタメ化で、時代考証は犠牲にされがち!?」

http://www.cyzo.com/2008/02/post_298.html

ここにも書かれていますが、やはりしっかりと現場に顔を出す考証家は珍しいのかもしれない、とのことです。

4 : 湖の騎士 : August 13, 2011 11:12 AM

Sel様 まことに貴重なご指摘とご意見、さらに豊富な事実を本当にありがとうございます。竹中直人が「天ぷらが食いたい」といったなどは、ちょっと人気が出てきたからといっていい気になる役者の性根を見た思いです。若いディレクターは有名人の言うことに逆らえないのでしょう。文句を言えば、そんな役者は降ろしてしまえばいいのです。組織はそうした「英断」をくだした社員を守るべきです。だが日本のサラリーマン社会では、「彼はへまをやった」ということにされ、大した演技力もない役者がのさばってゆきます。とにかくこれ以上の「史実の改変」は許すべきではありません。今後ともどうかウォッチングしてください。ご教示いただいたサイトにはこれからアクセスします。