View of the World - Masuhiko Hirobuchi 国際ジャーナリスト エッセイ 講演家 スヌーピー http://hirobuchi.com/ en 2009-01-03T12:30:24+09:00 賀状に見る新年のムード http://hirobuchi.com/archives/2009/01/post_296.html だれもが今年は厳しいと覚悟しています。しかしこの経済危機は問題が大きすぎ、個人の力ではどうにもならないだけに、「あまり心配してもしようがない」という気分になっているのもたしかです。受け取った年賀状には、いつもの年初に見られるような、日本の現状を嘆き怒るような文面は少なく、むしろ穏やかな文章が多かったという印象です。皆さんが少しでも友人を元気づけようとし、あえて暗いことは書かないようにしている気配があります。他人を思いやる日本人独特のやさしさが根底にあるのかも知れません。失業した人、この寒空に住居を失った方々の悲しみ・不安は大変なものです。しかしイスラエル軍のガザ地区への空爆、ハマスによるイスラエル各地へのロケット攻撃のように、直接命を狙われる状況にくらべれば、日本はまだまだ恵まれていると感じている人が多いのではないでしょうか。世界同時不況については、「こんな不況などに負けていられるか!」という気分も世界に満ち満ちています。
折しも新年大発会のニューヨーク株式市場は大幅高となり、2か月ぶりに9000ドル台を回復しました。株価が高いと気分も明るくなります。先行き楽観はできませんが、総悲観の逆の目が出て、世界が少しずつ明るい方向へ向かってゆくことを祈りたいものです。最も基本的なことを見直し、感情で物事や政治家を判断せず、日本の欠点と美点を共に見ることができるならば、希望はかならず生まれてきます。皆様にとってよい1年でありますよう、心からお祈り申し上げます。

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COLUMNS hirobuchi 2009-01-03T12:30:24+09:00
大晦日のキスーー伝説と現実の差ーー http://hirobuchi.com/archives/2008/12/post_295.html 大晦日の過ごし方というのは各国さまざまですが、その中でも超有名なのがニューヨークのタイムズスクエアでのそれです。大晦日から元旦になる瞬間に広場を埋め尽くした群衆は、いっせいに「ハッピーニューイヤー!」と叫びます。この時は群衆の中にいるだれとでも自由にキスをしてよいということになっています。べつにそういう法律があるわけじゃなし、市条例もあるわけがありません。これはいつだれが言い出したか分からない「伝説」です。私も今までに数回この瞬間を目撃しました。べつにどこかの美人にキスをしようなどと不埒なことも考えなければ、そんな度胸もあるわけがありません。しかし集まって来ている群衆は心のどこかに「あわよくば」という野心(?)を隠しているのかもしれないのです。もしそういう楽しみがなければ、なんであんな寒いタイムズスクエアに何万という人々が集まるのだろうと不思議に思えてきます。一貫して冷静な観察者に徹してきた私の経験では、見知らぬ異性とキスをしている人間を見たことはありません。まさに現実は伝説ほど甘いものではないようです。この伝説もあるいは100年以上も前には真実だったかもしれません。やや無責任なこういう言い伝えが今でも半ば冗談として生きており、本気になる人もいれば、ちゃんと醒めている人もいるところが愉快です。この未曾有の経済危機の中で、今年もニューヨーカーや観光客がタイムズスクエアに集まり、元気を出して「ハッピー・ニューイヤー!」と叫んでいるさまを想像します。この危機を乗り切るのは人々の元気と英知しかありません。大声で叫ぶ「ハッピーニューイヤー!」の声が世界中にこだますることを祈っています。

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COLUMNS hirobuchi 2008-12-30T21:58:56+09:00
見上げた青年 http://hirobuchi.com/archives/2008/12/post_294.html ニュースを見ていても心が滅入ることが多い昨今ですが、ちょっといい話を。去る水曜日(24日)最寄りの駅から自分の携帯でこれから会う相手に「10分ほど遅れる」旨の電話をしたのですが、「よく聞こえない」とのことでした。なにか私の電話にトラブルがあったらしいのです。ここは絶対に承知しておいてもらわねば困るので、焦りました。目の前を見ると、若者が二人ちょうど携帯で通話を終わったところでした。そこで、「頼むからちょっとその電話を貸してほしい」と言いました。学生服の若者は「どうぞ」と言い、私が言う番号をただちにプッシュしてくれました。おかげで、相手にはたちまち用件が通じました。電車が来たので、私は若者たちと一緒に乗り込み、今の通話のお礼ということで、ほんとに気持ちばかりのお金を渡そうとしました。だがその若者は絶対に受け取ろうとしません。「私の感謝の気持ちだから」と再度強く言ったのですが、「いや、いいです」と言うばかり。その断り方が非常にスマートで、少しも無理をしていないのです。私が渡そうとした金額もそんなに心の負担になるような額ではなく、「通話料の足しになれば」という程度のものでした。他の若者なら、「ありがとうございます。では遠慮なく」と受け取っても少しも不思議ではない光景だったと思います。しかしこの若者はにこにこして、私の気持ちを固辞したのでした。聞けば高校生とのこと。多弁ではなく「困ったときはおたがいさまです」などとは言いませんでしたが、ほんの1分か2分の応答の中に、なにか人のよさとか、受けてきた教育や躾のよさを感じさせるものがありました。日本にもまだまだこういう清々しい若者がいるのだと思い、心が少し明るくなりました。

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COLUMNS hirobuchi 2008-12-26T14:43:01+09:00
クリスマスツリーへの無神経 http://hirobuchi.com/archives/2008/12/post_293.html 図書館へ最近行かれたことがありますか? どの図書館にもクリスマスツリーが飾ってあるのに私は強い違和感を覚えます。念のために近くの自治体が運営する図書館に軒並み電話をしてみましたが、今のところ99パーセントどころか100パーセントツリーが飾ってありました。なぜ違和感を感じるのか。私が異常だからでしょうか? そうではないでしょう。違和感を感じない人のほうが神経が麻痺してしまっているのです。当り前のことですが、クリスマスツリーというのは、キリストの誕生日を祝うためのものです。厳密にいえば「宗教行事」です。自治体が運営する図書館が、自治体のお金(つまり税金)を使って、特定の宗教に肩入れするようなことをしてよいわけがありません。しかし今の日本では「子供が喜ぶから」という理由で、クリスマスの意味も何も考えずにこういうことを平気でしているのが実情です。こういう感覚が日本人をかぎりなく「国際音痴」にしているのです。外国人(主に白人)を見れば、すぐにキリスト教徒と勘違いして、簡単に「メリークリスマス」と言ってしまう。こういうセンスでは、平和な世界は築けません。海外旅行などでは、身に危険が及ぶ場合もあります。外国人を見ればまず「相手の宗教のことを考える」習慣が必要です。それは小学校の時から教えなければなりません。人種の坩堝(るつぼ)と言われるニューヨークなどでは、会社単位で送るこの季節のカードには「メリークリスマス」という文言は使わないのが常識です。Season's Greetings (季節のご挨拶を)という文面が主流です。市民の4人に1人はいるとされるユダヤ教徒への配慮から生まれたものですが、今ではイスラム教徒や仏教徒への気配りも必要で、「シーズンズグリーティングス」という表現なら誰をも傷つけないからです。
こういう基本的なことを教えないで、教育委員会が運営する図書館に軒並みクリスマスツリーが飾ってある風景というのは、日本人の感性の劣化の象徴です。デパートなど民間会社が商売としてツリーを用いるのと、宗教に対して公正中立であるべき自治体の機関がツリーを飾るのとは全く意味が違います。そういう公私の区別を幼い時から徹底的に教えないと、ユダヤ教徒やイスラム教徒に対していとも簡単に「メリークリスマス」と言ってしまうような、「常識欠如人間」が生まれてくると思います。まずは公共施設からクリスマスツリーを撤去する運動を皆さんも進めていただきたいものです。心配なのは、私が文書なり電話で自治体の責任者に撤去申し入れをしても、その意味が理解できない担当者がいるだろうということです。こういう申し出の正統性を理解するだけの基本教養がない人間が多いのではないかという危惧は拭えません。しかしどういうアプローチが有効かを真剣に考えてみたいと思います。

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COLUMNS hirobuchi 2008-12-20T10:56:39+09:00
麻生叩きの裏にあるもの http://hirobuchi.com/archives/2008/12/post_292.html 12日の木曜日「夕刊フジ」は「首相週明けにも辞任か」とのトップ記事を掲げ、「日刊ゲンダイ」は「小泉暫定首相も」との大見出しで売っていました。表現は少し違っているかも知れませんが、言おうとするところはこのとおりでした。タブロイド版の夕刊紙の記事にムキになって反論する気はありませんが、ここのところマスコミの麻生叩きはますますエスカレートしてきています。少し「図にのっている」感じもあります。あるいは「面白がっている」気配と言ってもいいでしょう。
たしかに麻生総理はみずから支持率を下げるような失言を重ねています。漢字が読めないのも大問題です。学習院の恥だという学習院卒業生や現役学生の気持ちも分かります。
しかし彼がこれほど執拗に叩かれるというのは、逆に言えば、なにがなんでも彼を辞めさせたいと願う勢力がある証拠です。その勢力のひとつは、国民の支持をまったく得ていない議員たちです。国家観もなく、世界も見えず、重要な政治の局面で醜態をさらした元幹事長たち(少なくとも3人います)、それに外交における「哲学」を持っている首相は許せないと見るメディアです。
こうした勢力が具体的にだれとだれを指し、どのメディアを指しているかを考えてみてください。ちょっとひねって、裏から今の報道ぶりを見れば、物事ははっきりと見えてきます。我々にとって最も大事なことは、「総理が国を誤った方向に導いているか否か」です。この一点に絞って、もし首相に落ち度があるのなら、大衆は即刻この政権を見放すでしょう。しかし、マスコミがここまで彼を叩いてもなお20%の支持があるのはなぜかを考えるべきです。この20%の人々は首相が好きだとか自民党が好きだとかいうことではなく、「首相の国家観や外交の基本が大きくぶれていないと思うがゆえに」支持しているのだと思います。首相はメディアのムードに押されて、反麻生に回っている大衆に媚びることをいっさいせず、自分が正しいと思うことをひたすら実行するべきです。離れていった大衆は風向きひとつで麻生支持に回る可能性があります。ひるがえって、麻生おろしを画策している醜悪なる元幹事長たちは、いつまで待っても国民的支持は得られない人々です。彼らの本質を国民はとっくの昔に見抜いているからです。

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COLUMNS hirobuchi 2008-12-16T18:58:30+09:00
マンガを読みつつ交差点を渡る男 http://hirobuchi.com/archives/2008/12/post_291.html だいぶ前に自転車に乗って携帯でメールをするオヤジーーのことを書きましたが、昨夜は雑誌を広げて読みながら青信号を渡ってゆく男に会いました。なんとまた忙しい男だろうと思って振り返ってみたら、彼が読みふけっているページはマンガでした。地方都市の交差点というのは、せいぜい30秒もあれば(測ったことはないですが)渡りきれるものだと思いますが、その30秒が待てないで読みふけるマンガというのはよほど面白いものだったにちがいありません。「近ごろはなんでもありだよ。そんな男の一人や二人いたってなんの不思議でもないよ」とお思いかもしれませんが、いろんな人間を見てきたつもりの私でもこういう人種に会ったのははじめてでした。この現象から「なんとまた気の短い!」と嘆くか、「そんなことをしていても車にひき殺される恐れはない日本は平和でよい国だ」と思うか、「彼を夢中にさせるマンガを生み出せる日本のマンガ文化はスゴイ!」と感心するか、人それぞれの受け止め方があると思います。中国などでは「車が来たらよけよ!」という街頭標識もあるくらいですから、こんなのんびり歩行者がいるとは考えられません。男は37、8歳。がっしりして肩幅が広くメガネをかけていました。ラフな格好で、堅い勤め人という感じではありませんでした。派遣社員の身分が危うくなっている師走の街です。彼がマンガに読みふける胸中はさぞかし複雑なのだろうと想像したり、「いやなに、何にも考えていないだけかも」と思いなおしたりしました。彼が今後車に轢かれたり、こわいお兄さんにぶつかって凄まれたりしないように、そして幸福にマンガを読み続けられますようにと願っています。

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COLUMNS hirobuchi 2008-12-06T12:04:34+09:00
BBCは「国営」にあらず http://hirobuchi.com/archives/2008/11/post_290.html BBCの3文字がそれぞれ何を代表するのか、はっきりとは知らなくとも、これがイギリスの放送局だということを理解している人は多いと思います。それはいいとして、これを「英国国営放送」と伝える有識者・評論家・新聞記者が多いのが気になります。テレビやラジオ、活字媒体、自分の著書の中でそう伝えているのです。BBCは断じて「国営」ではありません。今の経営形態になるために、イギリスが朝野をあげてどんなに苦労し真剣に取り組んだか、そしてこの形がその後いかにながく多くの国の「公共放送」の模範となったかを知る者にとっては、こうした誤報や認識のミスは許しがたいとまで思えてきます。「遠いイギリスのことだ。そんなに力まなくてもいいじゃないか」とお思いかも知れませんが、これは放ってはおけない「事実誤認」です。イギリスは幕末以来、日本にさまざまな影響を与えてきた国です。立憲君主制に基づく民主主義国であり、文学作品も数多く読まれ、少しシャイで「俺が俺が」と言い募るのを恥とするメンタリティを持つ国民がいるのがイギリスです。共に大陸に近い島国であることを初め、日本とは実に多くの類似点、共通点を持っています。そのイギリス社会の根幹をなしているのがBBCというシステムです。BBCへの正しい理解を欠いてはイギリスは理解できず、世界の公共放送の何たるかも理解できません。過剰な商業主義に陥るのを防ぎ、国家権力の介入を排して言論・表現の独立を守るためにはどういう経営形態がよいかを、何年も考え続けた結果生まれたのが、「受信料収入による経営」「各層・地域の代表から成る経営委員会の設置」「経営委員会が日常の業務を執り行う最高責任者たる会長(ディレクター・ジェネラル=DG)を選び、これに業務を委ねる」という今の形でした。免許の期限は5年とするという形でスタートしたのが、1927年です。BBCを成り立たせる法律は、「時限立法」であり、組織の形態は「特殊法人」でした。歴代のDGは、時の政治権力の介入を排するために、それこそ死にものぐるいの努力をしてきました。詳しいことにはご興味がないと思いますが、そうしたDGの中でもひときわ人格識見ともにすぐれていたのが、初代のジョン・リース(John Reith)でした。BBCは British Broadcasting Corporation の略で、英国放送協会と訳されています。初めは British Broadcasting Company という純民間会社としてスタートしたのですが、放送というのは、一民間企業に任せるにはあまりにも影響力が大きいという意見が生まれてきた結果、「ではどういうシステムが望ましいか」ということになり、放送の未来を考える委員会が設置されました。熱い議論の結果生まれた案が、民放でもなく国営でもないという、世界に前例を見ない今の形でした。こういう血のにじむような苦闘の歴史に何ら関心を払うことなく「英国の国営BBC」と断じている評論家や政治家に猛省を促したい気持ちでいっぱいです。ちなみに日本のNHKは、このBBCの理念とシステムを手本にして生まれたものです。今のNHKの経営陣および従業員が、BBCの創立の理想と苦難の歴史をどのくらい知っているでしょうか? 「知っていればこういうことはしないはずだ」と思える事例が多すぎるように感じるのは私だけでしょうか?

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COLUMNS hirobuchi 2008-11-26T17:28:21+09:00
「私にはその資格がない」という考え方 http://hirobuchi.com/archives/2008/11/post_289.html 欧米で街の人にインタビューしようとしてマイクを向けた時に、しばしば出会う回答が「私にはその資格がありません」という言葉です。たとえばある経済問題についてうかがいたいというと、「私はそれについてコメントする資格がない(コメントするに値いしない)」と言って断る人がけっこう多いのです。「 I am not qualified to 」とこの人々は言います。 to のあとには 「comment on that.」が略されているのです。「私はその件についてコメントするだけの資格がありません。私のコメントはテレビで放送されるほどの価値あるものではございません」ということで、じつに奥床しく、昔ふうにいえば「分を知った」態度です。
ところが今の日本では、ろくなコメントもできなくとも、恐れを知らぬというか恥を知らぬというか、ほぼ誰でもなんらかのことをしゃべります。それが放送されて公衆の耳に届くことを恥ずかしいという感覚がないのです。これは街のおじさん、おばさんをはじめ、政治家にも学者にも言えることです。TVのディレクターもあまりに型にはまった凡庸なコメントならボツにすればよいものを、そのまま流しています。子供とて同じです。連休に遊園地に行った感想も懲りもせずに聞く記者がいます。答えはまず90パーセントが「楽しかった」です。それ以外のことを言えないのです。そんなものを毎年毎年放送する価値があるのでしょうか?
欧米のことをよく言い、日本のことを悪くいう気はありませんが、それこそ昔の日本人なら「私にはそれについて言及するだけの資格がございません」といって、インタビューを断っただろうと思えることしばしばです。この慎みぶかさが日本に戻ってくれば、日本の社会はもっと活気づくでしょう。国会のやりとりも、毎回同じような凡庸な言葉は影を潜めると思います。逆にいえば社会が活気づくためには、生きた新鮮な言葉が不可欠です。「それについて語る資格が自分にあるのだろうか?」と考える人々がふえてほしいものです。テレビ局側はもっと必死になって「オリジナリティのあるコメント」を探し求めてほしいものです。

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COLUMNS hirobuchi 2008-11-21T20:54:11+09:00
英皇太子と警官のやりとり  http://hirobuchi.com/archives/2008/11/post_288.html 本当の話か作り話かは分かりません。チャールズ皇太子が独身だったころののことです。彼は夜な夜な名門の令嬢たちとレストランでデートを楽しんでいました。ロンドンの北の方には、ベイズウォーターロードと呼ばれるおしゃれな通りがあり、その周辺にはファッショナブルなレストランがいくつもありました。皇太子はこの界隈がお気に入りでした。美女と食事をするからには、ワインは当然付きものです。彼もほどほどに美酒をたしなみ、自分で車を運転して住居の近くまで帰ってきました。車はフェラーリかアストンマーティンでしょう。見たわけでもないのにやけに詳しいところが、なんだか怪しいとお思いでしたら、そう思ってくださってけっこうです。酩酊しているわけではないのですが、王子の車はちょっとふらついたようです。そこで交通警官が呼び止めました。「免許証を見せてください」。「いや、家に忘れてきました」。「お住まいはどちらですか?」  このおまわりさんは人を食っていると思いませんか? テレビなどで、三歳児でも顔を知っている自国の皇太子殿下に向かって「お住まいはどちら?」としゃあしゃあと聞いたのです。聞かれた王子もさる者で、そのとき少しも慌てず、「バッキンガム宮殿です」と答えました。聞くほうも聞くほうなら、答えるほうも答えるほうです。すると警官は重々しく、「次回からは免許証を携行するように。分かったね。では今日はこれで行きたまえ」と言いました。「ありがとう」と答えて皇太子は颯爽と愛車を駆って街に消えて行きました。
さてこういう話に余分な解説をつけるというのも野暮のきわみですが、解説がないと、なんだか消化不良になり物足りないとお感じかもしれません。でも唐突さを覚悟でここで一度切らせていただきます。しかしそれではいくらなんでもあっさりしすぎている気もします。そこであえて出蛇足を付け加えます。私は飲酒運転を奨励するわけではありません。だがこの警官と皇太子のやりとりは、実に粋なものに見えると思ってこれをご披露した次第です。賛否両論入り乱れたご意見を期待しています。

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COLUMNS hirobuchi 2008-11-13T15:47:01+09:00
ユーモアの実例ーー政治がらみでーー http://hirobuchi.com/archives/2008/11/post_287.html ロンドンでの話です。時代は特定しません。とにかくずいぶん昔のことです。テレビ局の特派員としてこの町にやってきた私は、着任して間もなく土地勘を養うためにいろいろな所へ足を運びました。まず誰でもが考えそうな、国会議事堂です。タクシーに乗って有名なビッグベンがくっついている議事堂へやってきました。道々運転手さんと景気の話や政治の話、若者の風俗など、いろいろなことを話しました。議事堂の前の広場は「パーラメント・スクエア」です。そこに第二次世界大戦中イギリスを率いた大宰相ウィンストン・チャーチルの銅像が立っていました。雨にぬれたチャーチルの像の頭に、鳩が一羽とまっていました。ここへ来るまでにいろいろと語り合って、「この客は話が通じる客だ」と思ったのでしょう。運転手は、私を降ろしながら、「ここですよ。奴らが(先生方が)あらゆる嘘をついているのは」と言いました。元の言葉は今でも鮮やかに覚えています。 This is where they are telling all the lies. 彼はそう言ってにっこりと笑いました。かなりのお年寄りですが、いたずらな子供のような目が印象的でした。
この言葉には「参った」と思いました。見知らぬ東洋からの客に向かって、「国会議事堂というのは、政治家たちがありとあらゆる嘘をついているところだ」とさらりと言ってのける運転手がいたのです。それほど高度な教育を受けているとも見えない一庶民がこれだけのことを言えるというのは、この国の民主主義というのはよほど成熟しているなと思いました。これは本当に高度なユーモア感覚だと思わず唸りました。次に考えたのは、もし当の国会議員の先生方がこの言葉を聞いたときにどういう反応をするだろうか、ということでした。
おそらく先生方は「そうだ、そうだ。そのとおりだよ」とにっこり笑って肯定するだろうと思いましたね。そこでいきり立って、「けしからん。国会議員を侮辱しておる!」などと大声を出すような野暮天は、国会になどやってこないものなのです。国益のためならば、そしてまた党利党略のためならば、どんな嘘でも平然とつくのが、我らの務めだと割り切るか、もっとゆとりがあって、「運転手君、君は実に正確に我らの本性を見抜いているね」と称賛するのが、大人の国の大人の政治家というものでしょう。
若い私の頭はまたくるくると回転しました。もし私が「国会はあらゆる嘘をつくところ」というタイトルの本を日本で出版したらどうなるだろう? おそらく頭から湯気を出した先生方(たぶん野党の)が、会社にどなりこんできて、「あのけしからん社員を辞めさせろ」とかなんとか言うんじゃないか。あるいは、そういうセンスがまったく備わっていない政治記者たちの間で、私は袋だたきにあうのではないか? などと考えました。日本はこの点でまだまだ先進国とはいえない野暮な議員さんや記者さんたちが多いのです。この状況は今も変わりません。むしろ当時より悪化しています。このくらいのことを言われて、「そうだ。よく言ってくれた。私もふだんからそう思っていたんだ!」と笑いだすような国会議員が、今より20パーセントでも30パーセントでもふえてくれれば、日本の国会での議論ははるかに面白く、実のあるものになり、およそ型にはまった空疎な議論は影をひそめるでしょう。そういう議員が多くいる党が政権を取れる可能性は高いと思います。とにかく議員たちが、そして記者たちが、ユーモアの分かる「粋な」人たちになってもらいたいものです。そのためには教養がなによりも必要であり、知的レベルの向上が不可欠です。
日本で改革すべきところは多々あります。しかし行政も法律も教育も、防衛体制も一気には変わりません。そんななかで、多くの人々がその気になれば変わりうるのが「ユーモア」という心の領域です。日本人のユーモアのセンスが向上しても、他国はけっして文句を言ってきません。外交の舞台でも、今よりははるかに水際立った交渉ができます。日本はずっと住みよく、国際社会でも尊敬され、侵略される可能性もぐんと減少するでしょう。教育現場ももっと活気と笑いのある場になることはまちがいありません。皆で真剣にこの心の領域を向上させるすべを考えたいものです。

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COLUMNS hirobuchi 2008-11-08T17:51:20+09:00
コンピューターの限界 http://hirobuchi.com/archives/2008/11/post_286.html 今回の金融危機に際し、多くの識者が「コンピューター上で組み立てられた架空の取引がとうとう破綻した。コンピューターを盲信した咎めだ。コンピューターよ奢るなかれだ。金融テクノロジー(FT)とかなんとか騒ぎ立てて、一般大衆を見下していた者たち(あえていえばアメリカ的なるもの)の傲慢さが世界の人々を苦しめている」といった意味のことを語っています。私もそう思います。コンピューターは一部の人々が思っているほど賢くはないのです。
しかし、今回はそんなシリアスな話ではなく、もっと初歩的なコンピューターの限界について語りたいと思います。
あるテレビ局のホームページに数か月前まで、「社史」が英語で掲載されていました。その中に「Launches color broadcasting.」というのがありました。これをコンピューターが独自の翻訳ソフトで日本語訳をした文章がそのまま表示されていました。何と、日本語訳は「発射は放送に色を付けます」でした。これで意味が通じますか? 通じるわけがありません。この翻訳ソフトは、Launches を主語と捉えてしまったのです。たしかに Launch には「発射」という意味があります。その複数だと思ったのでしょう。そしてこれに続く color を動詞と受け取ってしまった。動詞とすれば「色を付ける」という意味はもちろんあります。そして「色を付ける」の目的語として、broadcasting (放送)が来たというわけです。
こういうふうに一度 Launches を主語と思い込んだが最後、もう常識も修正もききません。ひたすら意味不明の大誤訳へと突き進んだというわけです。
では正解は何でしょうか? 「会社はカラー放送を開始した」です。欧米の新聞では過去に起こったことでも現在形でいうのがふつうです。そしてまた主語を省くこともしばしばです。この文章の冒頭には「会社は」という主語が隠されているのです。したがって筆者の言わんとするところを正確に再現してみると、
The company launched (=started) color broadcasting. となります。launch には「発射」と同時に「開始する」「スタートさせる」という意味もあるのです。これならだれにでも理解できます。1965年ごろに各社はいっせいにカラー放送に踏み切ったものです。
この例は少し複雑すぎて、あまり面白くないかも知れません。そこでもっと簡単な、今では古典的(?)誤訳として有名な例を挙げることにします。 Out of sight, out of mind. をコンピューターに現代語訳(あるいは外国語訳)をさせたらどうなったか? 原文は学校英語でも人気のある諺で、正解は「去る者日々に疎(うと)し」です。つまり人々の目にとまらなくなった人間は、人々の心の外へ行ってしまう。会社や学校で過去にいかに功績のあった者でも、いったん退いてしまうと人々はその人物のことを日に日に忘れてしまう、という意味です。
ところがコンピューターは、これをどういうふうに外国語(あるいは現代語)に翻訳したか? 驚くなかれInvisible maniac. でした。Out of sight は「視界の外にある」つまりは「目に見えない」ということで「インヴィジブル」と訳されました。そして out of mind には「気がふれた」「正気を失った」という意味もあります。だから「マニアック」と訳されたのでしょう。哀れ昔からの名言とされた「去る者日々に疎し」は「目に見えない狂人」とされてしまったというわけです。
少し例が古すぎるかもしれませんが、この迷訳はコンピューターの限界を広く知らしめるのに絶大な効果があったようです。

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COLUMNS hirobuchi 2008-11-04T22:58:08+09:00
ナオミ(Naomi)という名の由来 http://hirobuchi.com/archives/2008/10/naomi.html 先日、Naomi Klein(ナオミ・クライン)という人が書いた『ショック・ドクトリン』という本のことを知らせてくれる書き込みが、このブログにありました。本の内容は今回の金融危機を引き起こしたアメリカ型資本主義の欠陥を激しく告発したもので、その予言力の鋭さが話題になっていることを伝えていました。私の頭にまっ先に浮かんだのは、本の内容もさることながら、著者の名前の由来でした。ナオミ・クラインというからには、著者はユダヤ教徒の女性で、おそらくドイツ系の移民あるいはその子孫だろうということでした。外国人女性にナオミという名が多いことは、日本でも割合と知られています。スーパーモデルのナオミ・キャンベルなどが最も有名でしょう。彼女の宗教が何かは知りませんが、Naomi と聞いた場合に、普通はユダヤ教徒を思い浮かべるのが常です。というのも、彼女は「旧約聖書」に登場する女性の中でも最も有名な存在だからです。彼女には二人の息子がいて、それぞれに結婚していました。お嫁さんたちはいずれもよくできた人たちで、ナオミは二人の息子と嫁たちと共に、幸せな日々を送っていました。ところが息子たちは、ともに早死にしてしまいました。ナオミは嫁たちに「貴女がたはまだ若い。早く故郷へ帰って再婚し幸福になりなさい。私はひとりでもなんとか生きていけるから」と強く奨めました。嫁の一人は反対して義母との生活を続けるといいましたが、ナオミの熱意ある説得についに意を決して故郷に帰り再婚しました。ところがもう一人の嫁のルツは、「私はどこまでもお母様について行きます」と言い張り、ナオミの説得に耳をかしませんでした。ナオミも根負けして、以後二人は仲良く助け合って暮らしました。ある時、飢きんが村を襲い、食べ物が極端に不足しました。小麦畑の持ち主が親切に「落ち穂なら自由に拾っていいよ」と言ってくれました。ルツは刈り取りのあとの落ち穂を丹念に拾い集めてナオミを飢えさせないようにしました。この二人の物語は、旧約聖書の中でも最も心の休まる美談として知られています。いわば模範的な嫁と姑の物語で、落ち穂を拾うルツの姿は、よく子供用の本などに描かれています。さてこの続きですが、どこまでも姑の面倒をみていたルツですが、ナオミは村の長老たちに頼んでルツの再婚の相手を探してもらいました。彼女の余生の幸福を願い、以後自分はひとりで暮らしたといいます。
娘にナオミという名を付ける親は、ルツのようなやさしいお嫁さんに恵まれて幸福な人生を送れるようにとの願望を込めているそうです。ルツという名の女性もけっこういますが、義母によく仕えるようにとの願望が込められた命名です。7年ほど前に、ある大学で講演した時に、お世話になった助手の女性の名前が「ナオミ」でした。奈緒美だったか、直美だったかは忘れましたが、「もしかしてご両親は旧約のナオミにちなんで命名されたのでは?」と聞いてみました。「実はそうです」と彼女は答えました。未婚でした。これからまず結婚して息子を生んで、二十数年後にやさしいお嫁さんを探さねばならぬという遠い将来の話ですが、そこまで見越して娘にこういう名を付ける親が日本にもいることを知りました。私の知っているナオミさんは、このほかにも数人いますが、まさか命名の由来を聞くわけにもゆきません。それこそプライバシーにかかわることで、余計な詮索です。大多数の日本のナオミさんは、ユダヤ教、キリスト教とは何の関係もないと思います。しかし、ここに挙げた助手のナオミさんの話の内容と、世界史についての知識の深さから、私はとっさに旧約のナオミを連想した次第で、それが講演後のパーティーの席の会話としてはごく自然の流れだったのです。
こういう長い話をあえてご紹介したのは、多くの方にナオミとルツの物語を知っていただくことが、外国人との付き合いや、世界を理解する上での参考になると思うからです。こういう名前に出会った時は、しかるべき応対をなさるのがよいと思います。
さて冒頭のナオミ・クラインですが、カナダ人のジャーナリストです。Googleで検索したところでは、30代半ばという感じ。本人あるいは先祖がドイツ系などということは、書いてありませんが、そこを読むこともまた理解を深めることに繋がると思います。本の内容は相当にきつく、文字通り「衝撃的」だそうで、旧約のナオミやルツよりは怖い人のようです。

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COLUMNS hirobuchi 2008-10-29T17:49:24+09:00
「庶民感覚」とホテルのバー http://hirobuchi.com/archives/2008/10/post_285.html 麻生太郎首相がマスコミから叩かれています。夜な夜なホテルのバーで飲むのがいけないのだ、ということで、社民党の福島瑞穂党首などに「庶民感覚とはかけ離れていますね」と語らせています。皆さんはこの現象をどう思われますか? たしかに一般庶民の生活が苦しい時に、ホテルのバーで高いお酒を飲むというのは感情的には許せないことかも知れません。しかし総理大臣はなにがなんでも「庶民的」でなければならないのか? むしろ庶民的でありすぎると大局を見る目を失ってしまうということはないのか? かつて土井たか子氏が社会党の委員長だったころ、「ラーメンが好きだ」と発言し、マスコミはこれを「庶民的」なることの表れとして大いに持ち上げたことを思い出します。しかし「ラーメンが好きなことと国民を幸せにする見識・政策を持つということの間には何の関係もない」のです。ましてや世界の海千山千でしたたかな指導者たちと対等にわたり合うためには、ラーメン好きといった感覚はマイナス要因になりかねません。一流のレストランで欧米の指導者と歓談するだけの教養を持ち、メニューの選択にも自ずとセンスが表れ出るような指導者の方がよほど役に立つのではないでしょうか? 麻生氏がホテルのバーでそういうセンスを磨いているとは思いませんが、マスコミの麻生攻撃は、あまりにもちまちましすぎ、スケールが小さすぎます。記者の個人的恨みつらみを公器であるメディアにぶつけているようで、品性を疑われる報道です。一国の最高リーダーたるものがいかにあるべきかについての歴史的・国際的な認識がないための報道であり、恥ずかしいかぎりです。

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COLUMNS hirobuchi 2008-10-25T14:33:31+09:00
公的資金注入を「政府介入」と見る風土 http://hirobuchi.com/archives/2008/10/post_284.html 銀行や保険、証券会社が未曽有の危機に襲われ、市場および人心を安定させるためには政府による「公的資金の注入」が不可欠との考えが、ヨーロッパを皮切りに世界に広まっています。こうした断固たる決意の表明によって、各国の株式市場はいくらか落ち着きを取り戻しました。これがいつまで続くかは別として、10日の暴落時よりは少しは明るい兆しが見えてきたように思う人は多いでしょう。
しかし、こうした動きを、アメリカのメディアは政府による「介入(intervention)」と報じています。長いあいだ政府の口出しを封じて独立してやってきたのに、ここで口出しや余計な「指導」などされたのではたまらない、という金融機関の困惑が滲む表現です。NYタイムズが編集している、IHT(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン)紙にはこの「インターヴェンション」という言葉が何回も登場しています。自分たちのルールで、いわば好き勝手なことをやっておいて、挙句に経営が破綻したのに、政府の資金注入を受け、それでもなお政府の援助を「介入」と受け取るのか、という怒りの声も聞かれそうですが、これがアメリカの金融マンの本音でしょう。そしてマスコミの中に政府の「インターヴェンション」を嫌う感情があるのも事実です。こういう「世論メーカー」を相手に、この危機への対処法を説明し納得させるのは至難の業です。アメリカ政府の動きが鈍い背景には、こうした精神的風土があることを、頭に入れておく必要があると思います。

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COLUMNS hirobuchi 2008-10-18T13:50:45+09:00
「フードバンク」という思想 http://hirobuchi.com/archives/2008/10/post_283.html 「フードバンク」という言葉を聞かれたことがありますか? 発祥の地はアメリカで、1960年代に誕生しました。一日に廃棄される、まだまだ食べられる食糧をきちんと集めて、食べ物を本当に必要としている人々に配るという組織です。もちろん非営利の団体(NPO)です。飽食の時代といわれ、消費者は食べ物に対してあまりにも要求過多になり、缶詰などもちょっとへこんだだけでも売り物にならないのが現状です。中身はまったく落ち度がないトマトケチャップやスープの缶詰が捨てられてしまいます。外国から輸入するグレープフルーツなどでも、箱が少しこわれただけで同じような廃棄の憂き目にあっています。片やその日の食事に困る人が、アメリカでも日本でも何万といるのです。
こうした「まだまだ食べられるのに廃棄処分される食べ物」と、「真に食べ物を必要としている人」の間を繋ぐのが、フードバンクですが、規模において、また組織の運営について、アメリカのフードバンクが大リーグの野球だとすれば、日本のそれはペンペン草の生えた原っぱでの草野球くらいだそうです(後述のチャールズ・マクギルトン氏の話)。
私にフードバンクの活動を具体的に知らせてくれたのは、元新聞記者の大原悦子さんです。この六月に彼女は『フードバンクという挑戦ーー貧困と飽食のあいだでーー』(岩波書店)という本を出版しました。その中にアメリカと日本のフードバンクの現状が詳しく紹介されています。多くの日本人が「日本にはもう飢えて死ぬ人はいない」と思いこんでいることが、いかに誤った認識であるかを私も痛烈に思い知らされました。今回の金融危機に始まる世界的な大不況の中で、食物を必要とし住む家を必要とする人々が増えるであろうことは、残念ながら確かでしょう。そういう視点からも、このフードバンクという機能をしっかり見つめていただきたいと思います。
日本で最初にフードバンクという組織を作ったのは、チャールズ・E・マクギルトンというアメリカ人です。最初この組織は「フードバンク・ジャパン」という名前でしたが、今は「セカンドハーベスト・ジャパン」という名になっています。マクギルトン氏はまだ36歳の若さですが、子供のころ、風邪薬をのんでその甘さに魅せられ、やがて家にあるアルコール飲料に手を出し、再起不能とまで思われるアルコール中毒者になりました。それこそ死ぬほどの苦しみを経て、ようやく立ち直りました。そして海軍に入って訪れた日本の魅力が忘れられず、除隊後再訪日して上智大学で勉強し、その間に日本で最も困窮している人々とともに暮らしました。炊き出しをしたり、スープを配る仕事もしました。目の前に困っている人がいると、助けるのに理屈はいらないというのが、彼の信念です。こうした人にありがちな、変な優越感とか過剰な使命感を発散する「嫌味」がまったくない人です。大原さんの本に触発されて、私は昨日彼に会ってきました。JRと地下鉄の浅草橋にほど近いビルの1階が事務所兼倉庫です。この会見は実にいろいろなことを考えさせました。命をつなぐはずの食べ物を、「太るから」という理由でできるだけ食べない女性たち。みてくれの悪い野菜や果物は買わない消費者。大量に捨てられる残飯。何十万円もするバッグが売れている一方で、きょうの食事にも困っている人々がいる現実等々ーー。
マクギルトンさんと同じような活動をしている組織は、兵庫県芦屋にもあり、こちらは「フードバンク関西」と呼ばれています。この組織にはまだ私はアプローチしていません。大原さんの本にはその生い立ちも現状も詳しく書かれています。できればこの本をぜひお読みください。岩波の本は「書店の買い取り」制で返品がきかないため、多くの本屋さんには置いてありませんが、注文されれば手に入ります。ご参考までに「セカンドハーベスト・ジャパン」と「フードバンク関西」のホームページ・アドレスをご紹介します。

セカンドハーベスト・ジャパン
http://www.2hj.org/

フードバンク関西
http://foodbankkansai.web.infoseek.co.jp/

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COLUMNS hirobuchi 2008-10-10T10:25:31+09:00